Take a Risk:林岳彦の研究メモ

自らの研究に関連するエトセトラについてのメモ的ブログです。主にリスク学と統計学を扱っています。

確率概念について説明する(第3-2-1回):「可能性」と「確率」のあいだ/ 到達可能性の線引き問題

やっと会えたね(本能寺で)。林岳彦です。さいきんルンバを買いました。ルンバが動いているのを眺めるときに、「実はどこかで山本昌がこのルンバをラジコンで操作している」のだと想像しながらその動きを眺めるととても贅沢な気分になれます。おすすめのライフハックです。


さて。

確率概念についての記事については前編だけ書いて、1年以上も間が空いてしまいました。もう間男と呼ばれても仕方ありません。たいへん申し訳ありません。


前回(前編)では、「可能世界論からコルモゴロフの定理までを繋げる」話をしました。

今回(後編)では、前回の内容を踏まえて:

「可能である」という概念と「確率」概念のあいだのギャップ

について書いていきたいと思います。

(今回も長い記事になっております。本当にすみません。。)


前編のおさらいと補足:「様相論理と確率測度」の記事の追加

あまりにも間が空いてしまったので、まずは以下の前回記事を軽くおさらいしてみます。

確率概念について説明する(第3-1回):可能な世界の全体を1とする — コルモゴロフによる確率の定理(前編) - Take a Risk:林岳彦の研究メモ

前回のまとめは以下の通りでした:

  • 「可能である」ということは「(近傍の)可能世界全体の部分集合」の形で捉えることができる
  • 様相論理の理路から「確率空間」を捉えることがもし許容されるならば、以下のように「確率」を捉えることができる
  • ざっくり言うと:「Aの確率」とは、(近傍の)可能世界全体における「Aが真である可能世界の部分集合」の「大きさ」である
  • もうちょい細かく言うと:(近傍の)可能世界全体において、関数Pが以下の3つの要件を満たすとき、P(Aが真である近傍の可能世界の集合)は「Aの確率」である
    • 0 ≦ P(近傍の可能世界の部分集合)≦ 1
    • P(近傍の可能世界の全体)= 1
    • Aが真である近傍の可能世界の集合」と「Bが真である近傍の可能世界の集合」に重なりがないとき、P(Aが真である近傍の可能世界の集合 ∨ Bが真である近傍の可能世界の集合)= P(Aが真である近傍の可能世界の集合) + P(Bが真である近傍の可能世界の集合)

上記のまとめを読んでもさーせんしょうじきちんぷんかんぷんです、という方は適宜前回の記事および前々回の記事をお読みいただければと思います。


はい。

では今回の記事では、この「可能世界/様相論理から確率概念を捉える」アプローチに基づき、4つの論点を参照しながら「可能性と確率のあいだ」について見ていきたいと思います。

(厳格にアカデミックな内容というよりも、当面はリスク分析者による楽屋話のようなものになるかと思いますので、気楽に読んでいただければと思います)


*以下マニア向けの補足*
前回の記事を書いた後に、前回の記事と同様に「様相論理の理路から確率空間を捉える」というアプローチをしている記事を見つけたので以下に少し補足しておきます。

一つ目は、Stanford Encyclopedia of Philosophyの”Modal Probability Logics”の項になります。

”Modal probability logic”では、以下のように「様相論理 Modal Logic」と「確率 probability」を関連づけした論理が紹介されています*1

Modal probability logic makes use of many probability spaces, each associated with a possible world or state.

もう一つは、『Artificial intelligence』という本の「確率概念」の導入の項にありました。この本はクリエイティブ・コモンズなので以下から該当部が読めます:

Artificial Intelligence - foundations of computational agents -- 6.1.1 Semantics of Probability

上記では、確率概念と可能世界についてのっけから:

First we define probability as a measure on sets of worlds, then define probabilities on propositions, then on variables

と導入しており、本ブログの前回記事とほぼ同じ考え方になっています。

上記2つのサイトを見る限り、「可能世界/様相論理から確率概念を捉える」のは、ある程度一般性のあるアプローチと言えそうです。


(1)到達可能性の線引き問題:どこまでが「”近傍"の可能世界」なのか?

ではまずは、「到達可能性」の線引き問題を考えてみたいと思います。


前回の記事でのまとめでは「確率」概念について以下のように説明しました:

ざっくり言うと:「Aの確率」とは、この世界の近傍の可能世界全体における「Aが真である可能世界の部分集合」の「大きさ」である

この「説明」はもっともらしくはあるのですが、現実の問題を考える上では困ってしまうところもあります。

それはとりもなおさず:

「(近傍の)可能世界全体」というけれど、「近傍」ってどこまで含めるの?

という問題です。


ここでいちど用語法のおさらいをしておきましょう。「この世界の近傍の可能世界」というのは、「この現実世界@」から大きく隔たらないような(=この現実世界@から到達可能な)諸可能世界のことを意味しています。例えば、「ある朝に目を覚ましたときにあなたが巨大な虫になっている」ことが真である世界というのは、「この現実世界@」とは異なる物理法則や生物的法則が支配している世界であると考えられるため、「この現実世界@」の「近傍(=到達可能な)の可能世界」とは言えないでしょう。

では、どこまでの可能世界を『「この現実世界@」から大きく隔たらないような(=到達可能な)諸可能世界』として含めれば良いのでしょうか?

ここで私たちは、この世界から諸可能世界への「到達可能性」に関する線引き問題に直面します*2


先ずは単純な例として、コイン投げの結果に関する「可能世界」を考えてみましょう。

コイン投げの結果(落下後のコインの向き)は、普通に考えると”オモテ”か”ウラ"かということになります。ただし可能世界としては、「落下後のコイン向きが”ヨコ”(落下後にコインが立つ)」という可能世界も普通に想定することができます。

ここで、私たちは「コイン投げの結果が”ヨコ”である可能世界」を「この世界の近傍の(=到達可能な)」可能世界として含めるべきでしょうか?


現実的問題としては、コイン投げのケースについて確率的に考える場合には、「”ヨコ”なんて考えてらんねーよ」ということになるかと思います。

これは、私たちが私たちの世界における今までの経験に基づき、コイン投げに際しての確率的考察においては『「コイン投げの結果が”ヨコ”の可能世界」を「この世界の近傍の」可能世界として含めない』という判断を暗黙裡に行っていることを意味しています。

ここで注目してほしいのは、この判断自体の是非ではなく、現実世界における対象を扱う上では「この世界の近傍の可能世界の全体(=全事象)」を定めるために我々自身による何らかの判断(=”近傍"のdefine)が必要であるということです*3

そしてこの「近傍の(=到達可能な)可能世界の全体」の範囲が定まらないかぎりは「確率」は定義できません。対照的に、「可能性」という概念は「この世界の”近傍"の可能世界の全体」が定まらなくても成り立ちます。(例:Aが真の可能世界が少なくとも一つ存在する=Aの可能性がある)

ここに「可能性」という概念と「確率」という概念のあいだのギャップの一つがあるわけです。


この「どこまでを”近傍"に含めるのか問題」は、リスク分析の実務においてはしばしば現実的かつ本質的な問題になります。

例えば、「原子力発電所に重大事故を引き起こす外部的要因が生じる確率」を考える際に、「可能な外部的要因の事象」として何をどこまで考慮に含めるかという問題を考えてみましょう。

「大地震」「大津波」「大噴火」「旅客機の墜落」「ミサイル攻撃」「ドローンによる攻撃」「特殊部隊によるテロ攻撃」「隕石の落下」「超能力者の念力による攻撃」「宇宙人によるレーザー攻撃」等々、要因として生じる事象についてさまざまなレベルの「可能世界」を想定することができるかと思います。

これらの例において、「この世界の”近傍”の可能世界としてどこまでを考慮に入れるのか」というのは、絶対的な正解のないいわゆる「線引き問題」になります。


そして、実はリスク分析においてしばしば最も本質的*4な作業のひとつは、この「この世界の”近傍”の可能世界(=全事象)としてどこまでを考慮に入れるのか」というフレーミングの部分になります。

このフレーミングさえ終わってしまえばリスク分析に残るのはあとは単なるテクニカルなパズル解きだけである(≒ 計算機が充分に発達すればデータサイエンティストの手元に残るのはフレーム問題だけである)・・・というのは多少言い過ぎにしても、リスク分析の最終的なメッセージ自体がフレーミングの仕方に大きく左右されうるケースもあり、この部分はとても重要なものになるわけです。

・・・抽象的な話だと分かりにくいかもしれないので、少し例を出して考えていきます。


分析の結論(意思決定結果)がフレーミングの仕方に極端に依存するようなケースとして、地球温暖化対策についての意思決定において「マキシミン則」を適用する場合を考えてみましょう。

まず、マキシミン則について説明しておきます。Weblio辞書から引用(link)します:

マキシミンルール
意思決定理論の用語。不確実な状況のもとで,予想される最悪の事態を避けることを合理的とする行動決定の基準。ロールズが正義の原理を導出する際に用いたことで知られる。

はい。一般的にいうと、マキシミン則とは「最悪のケース(minimum)における効用」を「最大化(maximize)する」という意思決定規則になります。くだけた言い方をすると、最悪の事態をできるだけ「まし」なものにするという基準で意思決定を行うルールのことです。


さて。では可能世界の枠組みを用いて考えていきます。

地球温暖化問題において「最悪のケース(最悪の可能世界)」とは何でしょうか。私が考えを巡らした限りでは、地球温暖化の帰結における「最悪の可能世界」は、「人類が滅亡した世界」になるのかなと思います*5

ここで、マキシミン則を適用してみましょう。「人類が滅亡した世界」のケースは少なくとも人類にとっては効用の下限であると考えられる*6ので、「最悪のケース=人類が滅亡した世界」を防ぐためのいかなる方策もマキシミン則に拠れば「最悪のケースにおける効用を改善(=人類滅亡の回避」)」するという理由により正当化されることになります。つまり、マキシミン則によって考えれば、あらゆる地球温暖化対策はその効果がどんな微弱なものであっても正当化されることになるわけです。

ここでありうるツッコミとして、『そうはいっても「人類が滅亡した可能世界」に到達する”確率"なんて低いんじゃないの?』というものがあるかもしれません。

この辺りがポイントのひとつになります。

マキシミン則を採るかぎり、"確率"の大小は問題になりません。この世界の現在のありようが「人類が滅亡する可能世界の少なくとも一つに到達可能」であるかぎり、マキシミン則を採れば「人類が滅亡する」という極端なケースを判断基準とした意思決定の話に帰着することになります。

一方、もし温暖化による到達可能な最悪の可能世界を「シロクマが絶滅した世界」と規定した場合には、マキシミン則に基づき「温暖化なんて超巨額の資金を使って対策をするほどのものじゃないよね」ということになるかもしれません。


上記の事例が示しているのは、「マキシミン則による意思決定」は「可能世界の到達可能性の線引き(=”近傍”のフレーミング)」の仕方に決定的に依存しがちということです。

一般的に、ある「Xという行為」についての意思決定において「マキシミン則を採用」し、なおかつ「可能世界の到達可能性をかなり広く採る」と、「Xという行為」に関する効用の下限として「人類の滅亡」のような極端なケースが含まれてくるため、「Xという行為」についての絶対的な評価に繋がりがちになります。

例えば、有名な「パスカルの賭け(wikipedia)」というものがありますが、これは「神を信じるという行為」に対して「可能世界の到達可能性をかなり広く採る(=「地獄という可能世界」は到達可能であるとする)」ことにより「神を信じるという行為」の絶対的な評価へ至るロジックの一種として解釈できるかと思います。


(もう少し異なる方向からのツッコミとして、「地球温暖化対策を行なったことによりかえって「人類が滅亡した世界」へ至るような可能世界もあるんじゃないの?*7」とか「「人類が滅亡した世界」を可能世界に含むのは温暖化に限らないですよね?」とかいうものがありうるかとも思います。こういう観点を含めると、マキシミン則では決定不能なので何か他の原理を持ち込んで考えるしかないですよね、となってきます)


はい。上記の例では、リスク分析(に基づく意思決定)の文脈において、その結論がフレーミングの仕方に強く依存する場合があることを見てきました。(もしかして勘違いされている方もおられるかもしれませんが、「リスク分析という営み」そのものと、「どのような意思決定則を用いるか」は基本的には別個の問題ですのでご注意ください。例えば、シミュレーションによるリスク分析の結果を受けてマキシミン則を適用するというのも普通にありえる話です)

上記の例ではマキシミン則(効用の下限に基づく意思決定則)を考えているのでフレーミングに極端に依存しますが、例えば「平均効用」を用いてもフレーム内に極端な可能世界(効用が無限小であるとか)が含まれる場合には同じような状況が生まれます*8。一方、「効用の最頻値」を考えると状況は比較的ロバストになります。ここで、「どのような意思決定則を用いるべきか」は個別の文脈に応じて考えるべきであり、それ自体が大きな論点となるものです。


はい。


というわけで、本稿では「諸可能世界への到達可能性の線引き問題」という観点から『「可能性」と「確率」のあいだ』について見てきました。

このように、「可能性と確率のあいだ」についてどう考えるのかは、リスク分析においては実務的かつ本質的な問題として常に/既に横たわっているものなのです・・・とさらに書き続けていきたいところなのですが、もうずいぶん長くなってしまったのでこの続きは別エントリーとして書いていきたいと思います。


*次回は、『「この世界の確率の低さ」問題:あらゆる奇跡はありふれる』という論点について書いていきます。


*以下マニア向けの余談*
“確率"というものが「客観的」なものか「主観的」なものかという論点はしばしば論争の種になります。私自身は「確率とは間主観的概念である」という立場であり、確率概念についての「客観的確率」という捉え方については特にかなり否定的です。その理由は、私がベイジアンであるからというよりも、私がリスク分析の実務に関わる人間であるから、という側面の方が強いです。端的に言って、公共政策に関わるリスク分析においては「確率」が「客観的確率」である、という認識は殆どの場合において優良誤認に過ぎないように感じています*9。上で書いたように、そもそも公共政策におけるナマの問題群を「確率という概念の型」にどう押し込むかというところからして間主観的なフレーミングに依存する部分が大きいのです。そのため、私はリスク分析者としてのある種の規範的な感覚として、「客観的確率」というものを是認する気にはどうしてもなれないのです。(そして、リスク分析は ---公共政策における専門知による分析一般と同様に--- 「間主観的なもの」であるからこそ、合意、あるいは合意された手続、に基づくことが重要となるわけです)


参考文献

ワードマップ現代形而上学: 分析哲学が問う、人・因果・存在の謎

ワードマップ現代形而上学: 分析哲学が問う、人・因果・存在の謎

可能世界論も含めた形而上学の入門として。わたくし的には2014年に読んだ本の中でいちばん面白かったです。こういう本がたくさん出ると門外漢としてはとても嬉しいです。

可能世界の哲学―「存在」と「自己」を考える (NHKブックス)

可能世界の哲学―「存在」と「自己」を考える (NHKブックス)

可能世界論の入門として。

*1:ただし、上記引用からも分かるとおり、"Modal probability logic"は「一つの可能世界に対して一つの確率空間」を対応させているようなので、本ブログ前回の記事とは階層がひとつズレている話になっているようです。

*2:確率論のコトバで言いかえると、『「全事象」って、どこまで含めるの?』という問いに対応します

*3:その判断が意識的になされたものか否かに関わらず

*4:であるにもかかわらず日常実務的には軽視されがち

*5:異論は認めます

*6:異論は認めます

*7:ジオエンジニアリングとか

*8:「パスカルの賭け」は寧ろこっちに近いと考えるべきなのかもだけど、まあどっちでもいいかとも思います

*9:ただし、筆者の観測範囲にバイアスが存在する可能性あり