この本はとんでもなく面白かったです。こんなに刺激的な本はなかなかないと思います。最近私が読んだ本の中では間違いなくベストのうちに入ると思いました。
惜しむらくは書名の印象と実際の内容に乖離があることです。この書名のせいで「この本の面白さが本当にわかる人」がこの本を手にとる機会が減ってしまっているのではないかと思われます。とても惜しまれます。
内容については、前半は確率概念とリスクの解釈、後半は確率論とロールズの「正義論」の繋がりを議論するというもので、とても刺激的でした*1。
- 作者: 小島寛之
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2004/02/29
- メディア: 単行本
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個人的なコメント:「リスク評価者の立場」と「マックスミン原理」
本書の内容に個人的にコメントを残しておきたいのは、本書の前半のテーマである「リスク評価」と後半のテーマである「マックスミン原理」の関係についてです*2。
例を挙げて説明したほうが分かりやすいと思うので、以下のような福本伸行的な状況を想定してみましょう*3。
あなた(Aさん)を含む6人(A、B、C、D、E、Fさん)はある部屋に閉じ込められてロシアンルーレットをしなければならないことになりました。6発を込めることができるリボルバーには1発のみ鉛の実弾が込められており、A→B→C→D→E→Fさんの順でトライすることになっています(各人には引き金を引くことのみが許されています)。あなたを含む6人の様子はモニターで撮られています。
さて、部屋の外に居てモニターを観ているKさんはこのロシアンルーレットの「リスク評価」を行うことになりました。Kさんはこの状況を見て「各人の死ぬリスクは1/6」であると評価しました。
本書の前半の論旨に沿うと、あなた個人にとっては「1/6だけ死んで5/6だけ生きるなんて状態はありえない」ことからこのリスク評価は殆ど意味を為さないかもしれません。このギャップは、リスク評価者Kさんにとっては
『あなた』と『他の5人(B、C、D、E、Fさん)』は『交換可能』である
のに対して、あなたにとっては
『あなた』と『他の5人(B、C、D、E、Fさん)』は『非交換可能』である
という言い方でも表現することができるかもしれません。
このリスク評価者Kさんの「6人は完全に交換可能」という見方を「冷血」と感じる方も多いかもしれません。しかしながら、この「交換可能性」は結果として集団的な「マックスミン原理」の採択を可能にする可能性を持つものでもあります。以下のような状況をさらに想定してみましょう。
上記の6人に対して
「もし6人全員が1000万円ずつ払うならば、『鉛の銃弾』を『コルクの銃弾』に変えてあげるよ」
という提案がなされたとしましょう。このときには、おそらく6人全員とも1000万円払うことに同意するでしょう(もし自分が死んだら元も子もないですからね)。この場合、マックスミン原理に基づき集団全体としての「リスク」は大幅に低減し「一人も死なない」という理想的な状況が達成されたと言えます。
ではここで、もしリスク評価者Kさんが「あのリボルバーの最後の1発分は実弾ではない」という情報を何らかの事情により知ってしまったとします。また、優しくもKさんはさらに、「6人は完全に交換可能」という立場を超えて、Fさんに
「死ぬのはA、B、C、D、Eさんのうちの誰かだから安心していいよ」
と教えてしまっていたとしましょう。
この状況において、上記と同様に
「もし6人全員が1000万円ずつ払うならば、『鉛の銃弾』を『コルクの銃弾』に変えてあげるよ」
という提案がなされたとします。このときには、もはやFさんは1000万円を払うことに同意しないかもしれません。ここでは、リスク評価者Kさんがはからずも「6人は完全に交換可能」という立場/建前を崩してしまったことにより、集団的なマックスミン原理が働かず、集団全体のリスクをみた場合には結局「一人死ぬ」ことになってしまったわけです*4。
上記の例は
リスク評価の際にリスク評価者が「集団内の個人は完全に交換可能である」という立場/建前を超えることにより、「集団的なマックスミン原理」という環境リスク管理を支えるひとつの倫理的論理構成の「底が抜けてしまう」可能性がある
という何とも困った状況がありうることを示しています。遺伝子診断の発達などにより個々人の持つリスクの大きさが明らかになりうるこれからのリスク評価において、この問題はまさに現実のものとなる可能性がでてきています。