Take a Risk:林岳彦の研究メモ

自らの研究に関連するエトセトラについてのメモ的ブログです。主にリスク学と統計学を扱っています。

フィッシャーの「統計的方法と科学的推論」が面白すぎる(その1)

最近、ひょんなことからフィッシャーの「統計的方法と科学的推論」(渋谷政昭・竹内啓訳、岩波書店)を譲り受けました。原本が1956年初版、翻訳本が1962年初版になっております。1962年はフィッシャーの没年*1ですので、フィッシャー晩年の著作ですね。

この本が色んな意味でとても面白かったので引用メモをしていきたいと思います。


まず、やや長いですが、本書冒頭「はしがき」の2ページ目からのカール*2・ピアソンへの言及をメモ(強調部は引用者による):

ピアソンの奇妙に混合した性格のために、この人選*3はある面では大いに成功したが、ある面では惜しむべき結果となった.ピアソンのエネルギーには限りがなかった.かれは生涯において多くの有能な助手の献身的な奉仕を受けたが、そのうち何人かをあまり良く扱わなかった.かれは、魔法の杖に従って動く勤勉なロボットの大軍によってはじめて実現できるような、雄大なあるいは途方も無い構想に満ちていた.科学に役立たせたとき、また伝統的には自然科学に含まれてないような研究分野を厳密に科学的とする手段として、統計学が大きな貢献をする可能性をもっているというゴルトンの考えを、ピアソンはある意味で評価していたことは疑いない.しかしながら統計学のこの偉大さも、ピアソンの目を通じて眺めると、自分自身の偉大さと容易には区別できなかった.


かれの数学、科学論文のみじめな弱点は、かれが自己批判しえなかったこと、何も知らない生物学においてさえも、他人から学ぶことがあるかもしれない、などということを認めようとしなかったことから生じた.したがってかれの数学的展開は常に精力的ではあったがすっきりせず、人を惑わせた.かれが大いに熱中した論争では、いつもかれには公正の感覚がないことをばくろしていた.メンデルの遺伝法則の正しさについてのベイトソンとの議論では、かれは巧みな闘牛士にたち向かう牛であった.かれ個人のおびただしい数の論文の生産、かれの大がかりな出版計画、王立協会とケンブリッジ出版部の秀れた出版能力によって圧倒的な文献が残された.生物学会は大部分それを無視した.実際それは思いあがったものであり、風変わりなものであった.しかしながら、論じられている問題のいくつかの本質的な重要性と、数学的な論文に常に備わっている威信、それと大胆な考え方は完全に無視されることを妨げるのに十分であった.ピアソンは過去について、たとえばガウス以来の最小二乗法の伝統について、ほどんど注意を払わず、統計科学の将来は大いに嫌悪していたであろうが、それにもかかわらずかれの諸活動は、より大きな運動の歴史において実際一つの地位を占めている.

さすがフィッシャー師匠、パネエっす*4


統計的方法と科学的推論 (1962年)

統計的方法と科学的推論 (1962年)

*1:ちなみにフィッシャーは1890年生まれなので、古今亭志ん生(五代目)と同い年です。ちなみに志ん生は1973年まで生きています。ちなみに志ん生が巨人軍優勝祝賀会で脳溢血になったのが1961年。

*2:ちなみにwikipediaによるとカール・ピアソンは、カール・マルクスに傾倒するあまりに"Carl"から"Karl"へと綴りを変えたらしい

*3:引用者注:ゴルトンが統計学の発展のためにカール・ピアソンのラボを経済的に援助し支えたことを指す

*4:微妙にツンデレ気味なのがまたたまらない