ちょっと戻って、第2章「初期の試みとその難点」の第4節「確率の意味」からの引用メモ(p35)。強調は本文ママ。
古典的な確率の概念を、個々の場合に適用できるための基本的な要請は、典型的な確率命題における主観的な無知と、客観的な知識との役割をはっきり示している。確率的な命題はすべて不確実性を含んだ厳密な叙述である。だからある事実を断言するよりは事実上の内容が少く、同時にまったく何も知らないとのべるよりは事実上の内容が多いということはしばしば認められてきた。このような叙述に必要な知識ははっきり定義された集団を対象としている。それは可能性の母集団であって、その中では極限の頻度比が正確にわかっていなければならない。必要な無知は、異なる極限頻度比をもつ部分集団をわれわれが区別することができないという点で規定される。
ここで「古典的な確率の概念を、個々の場合に適用できるための基本的な要請」というのは「頻度主義的な確率概念を個別のケースに適用できるための要件」という意味かと思われます。フィッシャーの主張ではその要件は:
- はっきり定義された母集団における極限の頻度比が正確にわかっている(知識)
- 異なる極限頻度比をもつ部分集団をわれわれが区別できない(無知)
の2つの両者を満たすことである、とのこと*1。このあたりの筆致は全く教条主義的ではなく、フィッシャーのさすがの明晰さを感じる。読んでいて愉しい。
*1:私の解釈が正しければ