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Take a Risk:林岳彦の研究メモ

自らの研究に関連するエトセトラについてのメモ的ブログです。主にリスク学と統計学を扱っています。

フィッシャーの「統計的方法と科学的推論」の訳者解説が素晴らしすぎる(その3)

前回から続きます:

統計的推測における”確からしさ”あるいは”確率”の問題を考えるために、三つの段階を区別しなければならない。たとえばものの長さを測る場合をとると、

  • 1.測定の方式(測定の回数等)と観測値からの推定方式を定める。測定方式はいろいろな対象に繰り返し適用されるものと考えられているとする。
  • 2.具体的な対象(このものの長さ)を測る際に、その測定方式と推定方式とを定める。たとえば誤差がほぼ確実に0.2cm以下になるようにするにはどうしたらよいか。
  • 3.実際に得られた観測値から、推測値を求める。またその精度はどのくらいであるかを求める。


1の問題は、たとえば抜取り検査の企画を定める場合に生ずる。そこでは平均的に精度がなるべく高い(あるいは一定以上の精度をもつ)推定方式が求められればよいのであるから、個々の場合は問題にならない。ここでは前節にのべたような確率分布の計算によって、得られる推定値のうちの何%が要求を満たすことになるかが正しく計算される。


2の問題は、一般に実験あるいは観測を行う前に考えられる問題である。この場合も推定値について確率分布を計算することができる。しかしこの場合、観測は1の場合と違って1回しか行われない。標本数は多くても本質的には1回の観測である。したがってたとえば誤差が0.2cm以下である確率が95%であるように計画しても、実際に得られる推定値にこれ以上の誤差をもつことになってしまうかもしれない。ここでは確率が95%であるということは、誤差は0.2cm以上になることもあり得るが、”多分”それ以下であろうということを表現するものになっている。”確率”をこのように使ってよいかの問題がある。


3の問題が先にのべた問題である。この場合推定値も真の値もすでに客観的にはきまってしまっている。そこに確からしさの問題を導入することができるかどうかということである。

ふむふむ。さらに解説は続きます。

”確率”という点だけに限っていえば、この三つの段階は次のような問題に対応させることができる。


1.歪みのないサイコロを何回も繰り返して投げるとき、たとえば1の目が出る確率が1/6であるということは、明らかに1の目が出る回数は、多数回の試行のうちには全体の1/6に近づくであろうことを意味している。


2.歪みのないサイコロを投げるとき、”今度”1の目が出る確率が1/6であるとのべるとすれば、それは1の目が出ることの”確からしさ”あるいは”可能性”が1/6という大きさであることを意味している。


3.今サイコロが実際に投げられた後、それにつぼをかぶせてしまって我々が出た目を見ることができない場合、それが1の目である確率はどのように考えられるであろうか、もしそれが1/6であるとすれば、それは我々が出た目を知らないということにもとづいて、1の目が出たという判断の”確からしさ”を1/6と判定するという、判断の信頼性を表す尺度を意味することになる。他方確率は客観的な対象についての可能性を表す命題であるとすれば、もう出る目はきまっているのだから確率は実際に1の目が出ていれば1、そうでなければ0で、その中間はないことになる。また我々がその目を見た人から出た目は奇数であることを知らされたとすると、確率が、一定の知識にもとづく我々の判断の信頼性の尺度であるという立場に立てば、1の目が出たことの確率は1/3になるが、それを客観的な対象に関するものとみなすならば、確率はやはり1または0であることに変わりがないことになる。”出た目が1である確率が1/6である”というとき、”確率”!という言葉の意味について、このような三つの段階があり得る。そうして確率の概念をどの段階まで認めるかが一つの重要な問題である。

サイコロの例による解説です。分かりやすいですね。

続き:

もし確率はまったく客観的に観察可能な事象に関する、観察可能な事実を表現するものでなければならないとすれば、それは多数の繰り返しの中の、ある事象の相対頻度としてのみ意味をもつことになる。それゆえそれは1の段階にのみ適用可能であり、特定の一回、”今度の”試行について確率を云々することはできないことになる。


これに対して確率を、このような相対頻度にもとづいて表現される、ある客観的な事象の出現の可能性の尺度であるとすれば、それは2の段階まで認められることになる。すなわち”今度”1の目が出る客観的な可能性の大きさは1/6であるといえることになる。しかし3の場合については、サイコロが投げられてしまえば、出た目はきまってしまうから、それが生ずる可能性の尺度としての確率は意味を失うことになる。


さらにもし確率を、一定の知識あるいは情報にもとづく判断の信頼性を表すものとすれば、たとえサイコロがすでに投げられてしまった後でも、われわれがその結果を知らないならば、状況は投げる前と変わらないから、出た目が1である確率は1/6であると考えるのが合理的である。もしわれわれが出た目について何らかの情報を得て、たとえば出た目が奇数であることを知るならば、判断の基準となる状況が変わり、確率はたとえば1/3になる。

こちらも分かりやすい。


次回は、これらの確率概念の「現在の統計学*1」における位置づけについての議論になっていきます。

*1:この訳書自体は1962年出版