Take a Risk:林岳彦の研究メモ

自らの研究に関連するエトセトラについてのメモ的ブログです。主にリスク学と統計学を扱っています。

フィッシャーの「統計的方法と科学的推論」の訳者解説が素晴らしすぎる(その4)

前回の続き(強調引用者):

このような立場は、それぞれ現在の統計学におけるいくつかの考え方のあるものを代表しているのである。確率を頻度として考える立場の代表者はフォン・ミーゼスである。彼は確率を集団現象における相対頻度の意味に限定し、さらに次のような三つの条件をつける。

  • 1.その減少は無限に繰り返しが可能である。
  • 2.無限の繰り返しの中で、一定の事象が現れる相対頻度は極限において一定の値pに収斂する。
  • 3.この集団の中から、何らかの規則に従って無限の部分集団をえらび出すとき、その部分集団の中での事象の相対頻度の極限値はつねにpに一致する。

そうして彼はこのような事実が経験的に確定された対象についてのみ、確率を適用することを主張している。したがってミーゼスにとっては確率論とは、規則的な構造をもたない集団現象における比率の理論にほかならない。それゆえミーゼスによると確率論の適用可能な範囲は極めて限られたものになる

いわゆる厳密な頻度主義の立場ですね。頻度主義の代表者としてフォン・ミーゼスを挙げています。

続き:

他方においては、確率を一定の命題の信頼性を表すものと考える立場がある。それをはじめて整理したのはJ.M.ケインズで、彼の確率を一定の根拠に基づいて判定される一定の命題の信頼性の尺度と定義した。すなわちそれはわれわれが一定の知識を前提にしてある命題に対してもつ信頼性の合理的な程度を示すものである。


たとえば”ある貨幣を投げるとき表が出る確率が1/2”ということは、ミーゼスの意味では、その貨幣を非常に多数回投げて、表が出る割合が1/2でかつその出かたが全く無規則的であることが、経験的に確定されていることを意味している。ケインズによればそれは”表も裏も全く同じように見えるので、表が出ることも裏が出ることもまったく同様に確からしいと判断するのが合理的である”ということを意味している。ケインズの意味での確率は一定の根拠にもとづくものであるから、新たな証拠たとえば10回投げて実際10回とも表がでたということになれば、そのときにはもう表が出る確率は1/2には判定されないことになるであろう。

これがいわゆるケインズの認識論的な確率概念の話ですね。大分類的には主観確率の系列に属しますが、「一定の根拠にもとづく」ことを必須項目として念頭に置いているので、後にでてくるベイズ派のそれとはちょっと異なります。

続き:

R.カルナップは”確率の論理的基礎”の中で、確率の概念における頻度の意味と論理的な命題の信頼性の尺度の意味とを区別し、前者をprobability1、後者をprobability2として別個の概念としている。そうして彼は後者の概念をくわしく吟味している。


ところでこの二つの立場については、いずれもその極端な形においては統計的推論の問題に対して有効でないように思われる。第1に確率を経験的に確定された無規則性を持つ自然現象に限って適用される比率の意味に限定するとすれば、多くの統計的な問題の対象はその適用範囲に入らないことになってしまう。一般には標本が無限母集団からのランダムな標本と考えられるとき、その無限母集団は必ずしも現実的に無限に繰り返し可能な観測の系列を表しているわけではない。そのような母集団はいわば現象(有限個の測定値)の背後に想定されるだけである場合が多い。母集団の仮説的hypotheticalな性質ということはフィッシャーが強調しているところである(79ページ)。


しかしまた確率を命題の信頼性の尺度と定義するときにも、その尺度をどのように異論なく決めるかについては困難がある。ケインズはその点を回避して確率は必ずしも数値的に表されるとは限らないとした。カルナップはそれを決定する法則を導こうとしているが、必ずしも成功していないように思われる。これに対して確率は全く個人的な判断の尺度であるという立場がある。そうしてそのような尺度は人間が不確実性をもつ場で決定することすれば、その判断の基礎におかれているはずであることをJ.L.サヴェジが示した。簡単にいえば、ある人が1:1の賭けで表が出る方に賭けるとすれば、その人は表が出る確率は1/2であると判断していることになる。また1:3の賭けなら裏の方に賭けるとすれば、この人は表の出る確率は3/4よりは小さいと思っていることになる。(ここで1:1とか1:3とかいうのは厳密には貨幣額ではなく、その人にとっての効用の大きさではからなければならない。サヴェジは一定の条件の下でこのような効用と主観的な確率とを同時に確定できることを証明した。しかし確率を純粋に個人的に主観的なものとしてしまうのでは、それを科学的な推理の基礎として使うわけにはいかないであろう。

これはいわゆるベイズ派の主観確率になります。

続き:

現在これらの立場の間に多くの中間的な立場があり、それらに相対頻度を確率的な命題の客観的根拠として採用しつつ、他方ではそれをある事象の出現の可能性、あるいはある命題の信頼性の尺度と考えている。


この問題に関するフィッシャーの自身の立場ははっきりしている。それは第2章4節にあるように、相対頻度に基礎を置いた命題の信頼性の尺度である。したがって相対頻度によって基礎づけられさえすれば、確率的な命題の表している事実そのものが直接無限の繰り返しを許すものである必要はないとフィッシャーは考えている。この点が推測確率の概念の理解にとって重要である。


これに対し、ネイマンは確率は頻度であるといっている。信頼係数と確率とが異るものであることを強調するのはこの点から生じている。

また次回に続きます。