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Take a Risk:林岳彦の研究メモ

自らの研究に関連するエトセトラについてのメモ的ブログです。主にリスク学と統計学を扱っています。

同情編のための前置き:許容可能リスク・ALARA・予防原則・汚染者負担原則

今回は放射性物質の食品健康影響評価のワーキンググループの評価書シリーズ(過去記事「憤慨編疑問編」 )の最終回として「同情編」について書こうと思ったのです。が、いざ書こうとすると、いくつかの関連する概念をあらかじめ説明しておかないとエントリーが長くなりすぎることに気づきました。

ので、ちょっと今回は「同情編」のための前置きとして、環境汚染物質の管理に関する以下の4つの概念/アプローチ:

  • 許容可能リスクに基づく管理
  • ALARA
  • 予防原則
  • 汚染者負担原則

について簡単に整理してみたいと思います。単なる前置きのくせに今回もとても長いです(いつもすみません)。

今回は(も)教科書的なドライな説明というよりも、実務サイドの人間として個人的に感じる微妙なニュアンスもあえて混じえて説明をしていきます。そのため、そのあたりは適宜割り引いて読んでいただけますと幸いです。あまりに偏った部分がありましたら、できればコメント欄などで中和していただければ幸いです>識者の方々

ちょっとおさらい:リスク評価と意思決定の図

今回は過去のエントリーで用いた以下の図を用いて説明していきます。

この図は、『意思決定は「リスク評価」「コスト対効果分析*1」「スジ(倫理)」の三本の柱から成り立つ』ということを表したものです。厳密にいうといろいろ異論はあるかもしれませんが、私は「リスクに関する意思決定」はざっくりとはこのように捉えるのがよいかと思っています。

まだ上記のエントリーを読んでいない方は、今回の説明のベースとなりますので、ご一読いただいておいたほうがより理解しやすいかと思います(ぺこり)。

リスク評価は意思決定を支える柱の一つにすぎない - Take a Risk: 林岳彦の研究メモ

「許容可能リスクに基づく管理」とは

では、まずは「許容可能リスクに基づく管理」という概念/アプローチから説明していきます*2

「許容可能リスクに基づく管理」は、基本的にはある防衛ラインとしての「許容可能リスク」というのを設定して、あくまでそこを参照点として管理していくアプローチです。


図で示すと、「許容可能リスクに基づく管理」は基本的には(許容可能リスクが定まった後は*3)以下の「リスク評価」の部分だけで管理するようなアプローチとなるかと思います。

放射性物質の場合なら、たとえば「生涯0.5%の絶対リスクの増加」というものを「許容可能リスク」と定めて放射性物質のリスクを管理していくようなアプローチに対応すると言えるでしょう。

ここで、ある集団においてどのリスクレベルを「許容可能」とするかの線引きは「科学」により決まるものではなく、本質的には当事者を中心とした社会的合意により決定されるべき筋合いのものです。ただし、実務的にはいちおう歴史的に定まってきた「相場」というものもありまして、化学物質の場合には「10〜100万人に1人の死亡(10の-5〜-6乗のリスクレベル)」がひとつのデフォルトとして採用されることが多いです*4


「許容可能リスクに基づく管理」のアプローチを採ったばあいには、「対策にいくらかかるか」というコストの話や、「倫理的にどうなの」という話は基本的には出てきません。そのため、「お金」や「倫理」が相対的にあまり問題とならないような場合には「許容可能リスクに基づく管理」でも問題はありませんが、「対策のコストが膨大」なときや「倫理的にちょっと...」という場合には「許容可能リスクに基づく管理」だけで対処するといろいろと齟齬がでてきがちです。

「ALARA」とは

では、次は「ALARA」について説明します。

ALARAは「As Low As Reasonably Achievable」の略です。この略さない全称("As Low As Reasonably Achievable")のほうをスラスラと言えるとツウっぽいので、ぜひ全称も覚えておくと良いと思いでしょう。

ALARAを訳すと「合理的に達成可能な範囲で汚染を低減する」というかんじになります。原子力安全保安院HPの定義を引用すると:

As Low As Reasonably Achievable:国際放射線防護委員会が1977年勧告で示した放射線防護の基本的考え方を示す概念。「すべての被ばくは社会的、経済的要因を考慮に入れながら合理的に達成可能な限り低く抑えるべきである」という基本精神に則り、被ばく線量を制限することを意味している。

となっています。


「ALARA」は、防衛ラインとしての「許容可能リスクの設定ありき」ではなく、あくまでもリスクと対策コストとの兼ね合いを見ながら曝露を最小限に管理しようというアプローチになります。

図で示すと下の常に「リスク評価」と「(社会的&経済的)コスト対効果」の両方を見ながら管理するというアプローチが「ALARA」ということになると思います。(また、実際問題としては「何をもって"Reasonably"とするか」を論じる際には倫理的な側面もスコープの範囲に入ってくるでしょう。)

放射性物質の場合なら、例えば「許容可能リスクに基づく管理の考え方で設定された基準値を超えているわけではないけれど、できれば除染したほうがよいよね」というアプローチは、基本的にALARAの原則に基づくといってもよいでしょう。また、「コストとリスクの兼ね合いを見ながら基準値自体をできるだけ低く設定する」というのもまたALARA的アプローチであるといえるでしょう。

ALARAに基づく管理の難しいところは、リスクだけではなく対策コストも(半)定量的に考えなければいけないことと、「許容可能リスクに基づく管理」にあるようなデフォルトの"相場"というものがないところです。


またALARAの難しさとしては、「何をもって"Reasonably"とするのか」の解釈によって、文言としては同じ「ALARAっす」といってもその内実は「かなり予防原則(後述)的」なものから「まったく現状追認的」なものまで大きく振れうることも挙げられるでしょう。例えば、予防原則が"Reasonably"だと考えている人の"ALARA"と、経済優先が"Reasonably"だと考えている人の"ALARA"の内実はかなり異なるものになるでしょう。

ここでも、"何をもってReasonablyとするのか"の線引きは「科学」によって決まるものではなく、本質的には当事者を中心とした社会的合意により決定されるべき筋合いのものです。

そのため、ALARAの原則でうまく行くかは、ひとえにその適切な運用(≒"Reasonably"の解釈に関する適切な合意形成)にかかるといってもよいでしょう。また敢えて逆に言うならば、ALARAの良いところは「何をもって"Reasonably"とするか」をアジェンダとすることにより、あるていど立場を超えた柔軟で建設的な合意形成を可能とする契機となりうる(かもしれない*5)ところであるといえるかもしれません。


(注:実際問題としては「許容可能リスクに基づく管理」と「ALARA」は連続的な概念だと捉えておいたほうがよいと思われます。「許容可能リスクに基づく管理」に見えるものでも、その背後にはALARA的な考え方が暗黙のうちに存在することもありますし、逆に「ALARAの原則に基づく」とはいっても、実質的には許容可能リスクの設定でほぼ決まる場合もあると思います*6。)

予防原則とは

はい。次は「予防原則」について説明したいと思います。

予防原則」は、Wikipediaには次のように解説されています(強調は引用者):

予防原則(よぼうげんそく)とは、化学物質や遺伝子組換えなどの新技術などに対して、環境に重大かつ不可逆的な影響を及ぼす仮説上の恐れがある場合、科学的に因果関係が十分証明されない状況でも、規制措置を可能にする制度や考え方のこと。


1990年頃から欧米を中心に取り入れられてきた概念であるが、「疑わしいものはすべて禁止」といった極論に理解される場合もあり、行政機関などはこの言葉の使用に慎重である。予防措置原則とも言う。欧州では、この概念を食品安全など人の健康全般に関する分野にも拡大適用しはじめたが、他の国・地域では必ずしも受け入れられていない。

まあ、ざっくり言うと「リスクの予測の不確実性が大きいばあいには、科学的に十分な証拠がなくても念のための対策をとるべきである」という考え方です。まっとうな考え方ですね。


ただし、上のWikipediaの引用文の後半の歯切れの悪さからも感じ取れますが、「予防原則」というのはちょっと正直メンドクサイ概念でもあります。なぜかというと、「予防原則」という概念を「ちょっとでも怪しいものは全て規制」という極端な意味で使う人もいれば、逆に「リスク評価の安全側(リスクの過剰推定側)の推定値を採って規制しましょう」というマイルドな意味で使う人もいるからです。

このように慣用上の意味に"大きな幅がある"ために、「予防原則」という言葉を使ったために議論が進まなくなる、ということもままあります。で、そこから議論が「予防原則の定義とは」みたいになってリオ宣言が・・・いやWSSDでは・・・みたいな展開になることもありますが、基本的に「予防原則の真の定義とは」みたいな議論はあまり建設的な方向には行かないので、やめたほうがよいでしょう。

そのような場合には定義の話には深入りせずに、本筋である「どのていど安全側(リスクの過剰推定側)を採るべきなのか/どのていどまで"念のため"の対策が正当化されうるのか」というところに議論を集中させるべきです。


一般論として、予防原則の難しいところは、ある特定のリスクについてだけ安全側(リスクの過剰推定側)をとりすぎると、かえって他のリスクを大きくしてしまう可能性(リスクトレードオフ)がでてくることです。例えば(あまり良い例ではないかもしれませんが)、温暖化のリスクに対して"念のため"に予防的に対処しすぎると、かえって原子力・自然エネルギーへのシフトによるまた別のリスクを大きくしてしまうことになるかもしれません。ここで大事になってくるのは「全体のリスクバランス」で、予防原則に基づくためには(というか予防原則に基づくためにこそ)全体のリスクバランスについても考えることに真正面から真剣に取り組むべきなのだと私は考えています*7

(また、予防原則は「たとえ証拠が不十分でも国家権力を動かしてよい」という、市民社会にとってちょっと逆に危うい側面があることも一応押さえておいてもよいかもしれません。予防原則もガバナンスが大事です。)


予防原則における「どのていど予防的であるべきか」の線引きも、「科学」によって決まるものではなく本質的には当事者を中心とした社会的合意により決定されるべき筋合いのものです。実質的に考えると、(コスト面を度外視するほど極端ではないタイプの)予防原則はほぼALARAのアプローチと重なってくるものと考えられ、本質のところは「(科学的な不確実性も踏まえた上で)何をもって"Reasonably"とするか」という論点に収斂していくものと考えられます。

そのためやはり「何をもって"Reasonably"とするか」についての社会的合意形成がキモとなるのだ、と私は考えています。

汚染者負担原則とは

では最後に「汚染者負担原則」について説明します。英語だとpolluter-pays principle (PPP)というようです。これについては私もあまり知らなかったので、今回ちょっと調べてみました(ニワカっす)。

汚染者負担原則は、上記の「リスクベース管理」や「ALARA」とは毛色の違う概念で、環境汚染についての「正義と公正」に関わる概念となるようです。

図で示すと下の部分ですね。

まずWikipediaの説明を見ていきましょう(強調は引用者):

汚染者負担原則(おせんしゃふたんげんそく、polluter-pays principle 略称PPP)は、本来は、経済協力開発機構OECD)が1972年5月26日に採択した「環境政策の国際経済的側面に関する指導原則」で勧告された「汚染者支払原則」、すなわち、環境汚染を引き起こす汚染物質の排出源である汚染者に発生した損害の費用をすべて支払わせることを意味していたが、その後、OECD加盟国で採択・実施される過程で変化して、特に日本では公害原因企業の汚染回復責任・被害者救済責任の追及に力点が置かれて、PPPの訳語も「汚染者負担原則」(「汚染原因者負担の原則」「公害発生費用発生者負担の原則」とも言う)として一般に定着している。

なるほど。

もともと経済協力開発機構OECD)で提唱されたときは:

環境汚染を引き起こす汚染物質の排出源である汚染者に発生した損害の費用をすべて支払わせる

という意味で、日本ではちょっとニュアンスが変わって:

公害原因企業の汚染回復責任・被害者救済責任の追及に力点

ということになったようですね。


次に、知恵蔵2011の説明も見てみましょう(強調は引用者):

環境対策費用は汚染の原因者が第1次の負担者であるべき、とする費用負担に関する原則。1972年にOECD(経済協力開発機構)が「環境政策の国際経済面に関する指導原理」の中で提唱した。OECDのPPPは、国際貿易上の各国の競争条件を均等化する、公正な自由競争の枠組みを作るための原則であった。経済学的には、外部不経済を内部化するための費用は汚染の原因者が支払うべきで、環境対策であっても税金を使って補助金を与えるのは不公平で非効率、という認識もある。日本では公害問題とその対策の経験の中から、PPPを公害対策の正義と公平の原則とする独自のPPP論が生まれた。公害防止事業費事業者負担法や公害健康被害補償制度に見られるように、原則の適用対象が被害の救済やストック公害の除去にも拡張された。この考え方は当初、日本独自の特殊なものと考えられたが、有害廃棄物の不適正処分地を浄化するために制定された米国のスーパーファンド法など、現在では国際的にも広がっている。 ( 植田和弘 京都大学大学院教授 )

なるほど。分りやすいですね。

もともと:

国際貿易上の各国の競争条件を均等化する

というのが目的*8であったのが、日本において:

公害問題とその対策の経験の中から、PPPを公害対策の正義と公平の原則とする独自のPPP論が生まれた

とのことです。また、この日本発の考え方は国際的にも広がっているということのようです。


こちらのサイトの解説も分りやすかったのでメモしておきます(強調は引用者):

  • 企業や開発者などの環境汚染者が環境破壊や健康被害が起こらないよう汚染防止に伴う費用を負担し、必要な対策を講じるべきであるとする考え方。

1972年にOECD理事会が加盟国に勧告した原則。

  • 環境資源の合理的な利用と配分を助長すると同時に,国際貿易や投資におけるゆがみを防止するため,汚染防止に必要な費用を汚染者が負坦すべきであるという考え方。

これは汚染の責任を追及しようというものではなく,国際貿易の観点から資源の適正な配分を達成しようというねらいがある。これに対し、74年度の環境白書は,わが国ではこれまでの深刻な公害の実態から汚染原因者がすべて責任を負うべきだとする社会通念が確立されていることを指摘しOECDのPPPの考え方をわが国に適用する場合には,費用負坦の範囲の拡大が必要であることを強調した。つまり汚染防除費用にとどまらず、環境の復元,被害者の救済、さらには近くの海が汚染されているため,遠くへ海水浴に出掛ける場合などに要する汚染回避費用まで汚染原因者の負坦に含めるという考え方。この「日本型PPP」の提示はPPPに関するこれまでのさまざまな論議に終止符を打ち,1つの明確な概念を与えたことで評価されている。

日本型PPPは「汚染防除費用にとどまらず、環境の復元,被害者の救済、さらには汚染回避費用まで汚染原因者の負坦に含めるという考え方」という考え方のようです。


さて、この考え方は明解なので特にこれ以上説明もあまり要らない気もしますが、この「(日本型)汚染者負担原則」をふくいち起因の放射線のケースに適用するならば当然:

「汚染者(東電&国)が責任もって、汚染防除費用にとどまらず、環境の復元,被害者の救済、さらには汚染回避費用の負担までやれよな」

ということになります。まあスジとしてはそりゃそうだよね、という話かと思います。

「何をもって"Reasonably"とするか」についての社会的合意形成を「誰が」「どう」代理できるのか

さて、上記においては何度も:

「何をもって"Reasonably"とするか」についての当事者を中心とした社会的合意形成が重要

と書いてきました。しかし、実際問題としてこのような「当事者を中心とした社会的合意形成」をどうオーガナイズするのか/できるのかというのは簡単な話ではありません。また、ここに「汚染者負担原則」のようなスジ論をどう絡めていくのかというのも、(理念的にはともかく)管理行政の中への実装を考えると必ずしも簡単とはいえません。


次回は、この『「何をもって"Reasonably"とするか」についての社会的合意形成を「誰が」「どう」代理できるのか』という視点およびPPPの視点から、放射性物質の食品健康影響評価のワーキンググループの評価書シリーズ最終回「同情編」について書いていきたいと思います*9



(あああ「前置き」だけでこんなに長くなっちゃった)

*↓同情編はこちら
放射性物質の食品健康影響評価WGの評価書案を読んでみた(その3・同情編) - Take a Risk: 林岳彦の研究メモ
.

*1:"費用"と書くと金銭的なものに限定されてしまうので、経済的・社会的なものの両者を含めて今回は"コスト"と表すことにしました

*2:注:「許容可能リスクに基づく管理」という定着した専門用語があるわけではなく、あくまでの今回のエントリーの中での便宜的な用語としてご理解ください

*3:許容可能リスクの設定自体には倫理的な問題も絡んでくる

*4:ちなみに化学物質は数が多いのでその許容リスクレベルを放射性物質のそれと単純に比較ですることはできません

*5:というか、契機にしなきゃダメだろ、という話ですよね。大人なら

*6:例は今すぐには思い浮かばないけど、たぶん。すいません適当なこと書いて

*7:『それでも日本人は戦争を選んだ』の加藤陽子教授のいう「リベラルによる現実主義」ってそういうことだと思うの

*8:OECDだからさ

*9:とりあえずしばらく連チャンで出張が続くので更新できないかもですが/とりあえず金曜の九州行き大丈夫かなあ台風...