Take a Risk:林岳彦の研究メモ

自らの研究に関連するエトセトラについてのメモ的ブログです。主にリスク学と統計学を扱っています。

なぜ共同事実確認に興味があるのか:リスク心理学の観点から

マサヤさんおめでとう!*1


さて。

今回は、今週の木曜日(12月8日)の松浦正浩さんのセミナー「マルチステークホルダー状況下における合意形成と科学的情報の接続」の宣伝も兼ねて、なぜリスク研究者である私が「共同事実確認」に興味があるのかについて整理してみたいと思います。

そもそもこの「共同事実確認」とは何かというと、「共同事実確認方式による原子力発電所の地震リスク」のシンポのこちらのHPから説明文を引用すると:

多様な、時には結論が対立する科学的情報を吟味し、背後にある前提条件、モデル、感度分析等を含めて公開した上で、関係者がある程度納得できる科学的情報と、現在の科学の限界を整理することで、社会的意思決定をできるだけ科学的情報に基づくものとする取組みが共同事実確認である。

というもの(らしい)です。共同事実確認の方法論的な特徴としては、ほぼ全てのステークホルダー(利害関係者)が納得できる科学的根拠を、ステークホルダーと専門家との「協同」で「事実確認」していくという点にあるようです。


ここであらかじめ今回のエントリー内容の要旨を書いてしまうと:

  • 信頼をめぐるリスク心理のある種の必然的な帰結として科学的事実における対立が生じるために
  • 半ば必然的に共同事実確認的なものが必要とされてくる(と私は思っているので共同事実確認に興味があるのです)

ということになります。
以下、このことについてリスク心理学の知見を交えながらウネウネと書いていきます。(今回も超長尺です本当にすみません)

あらかじめネタ元開示

ちなみに、今回の話のネタ本は:

リスクのモノサシ―安全・安心生活はありうるか (NHKブックス)

リスクのモノサシ―安全・安心生活はありうるか (NHKブックス)

安全。でも、安心できない…―信頼をめぐる心理学 (ちくま新書)

安全。でも、安心できない…―信頼をめぐる心理学 (ちくま新書)

実践!交渉学 いかに合意形成を図るか (ちくま新書)

実践!交渉学 いかに合意形成を図るか (ちくま新書)

となります。最初の二つが中谷内さんのリスク心理学の本で、最後のものが松浦さんの交渉学の本です。

本エントリーを読んでみて興味を持った方は是非これらの本もお読みいただければ!と思います*2

(*念のために書いておきますが、私の専門は広くいえば「リスク学」ですが、その中心は「化学物質の生態リスク評価」であり「リスク心理学」は専門ではありません。そのため、以下の内容においてはもしかすると間違いや私の誤解が多々含まれている可能性もありますが、何卒その点は差し引いてお読みいただければ幸いです)

情報処理の2つのシステム:二重過程理論

ではまず、前半部の「信頼をめぐるリスク心理のある種の必然的な帰結として科学的事実における対立が生じる」のところを、リスク心理学の概念の説明を交えながら解説していきたいと思います。

初めに、信頼をめぐるリスク心理を考える上での前提知識として、「人はどのようにリスクに関する情報を処理するか」に関しての基礎概念である二重過程理論について説明していきます。


さて。二重過程理論とはどういう考えなのでしょうか。上掲の『安全。でも安心できない』から説明を引用してみます(p160; 強調は引用者):

二重過程理論の基本的な考え方は、人がものを考えたり理解したりするときの情報処理が二つのシステムで支えられているというものである。ひとつが、先の感情ヒューリスティックを機能させる、いわゆる感情的なシステムであり、もうひとつがいわゆる理性的なシステムである。(中略)


いわゆる感情的システムは、無意識的、自動的に働き、具体的イメージや物語を材料にして、好ましい感情を感じるか、それとも嫌な気分が強まるかということが重要な判断基準となる。全般的な印象が大切で、処理は素早く、認知負荷(知的労働としてのたいへんさ)は低い。一方、いわゆる理性的システムは意識的で判断過程がコントロールされており、抽象的な確率や記号を操作し、それらにもとづいて、論理的に正しいかどうかという基準で判断が進められる。分析的であり、論拠の確かさが大切で、処理には時間がかかって、負荷が高い。


人間の情報処理はこのような二種類のシステムが並行して働いたり、あるいは、両者が相互作用しながら判断が進められている、という考えが今日の心理学では広く共有されている。(後略)

つまり、二重過程理論によると、人間の判断システムには「感情的(感情ヒューリスティック)」なものと「分析的」なものがあるということですね。(このうち前者は「システム1」、後者は「システム2」などとも呼ばれたりするようです)


「人はどのように情報を処理するか」という観点から見ると、あるジャンルに関しての専門家ではない(あるいはそれほど強い関心がない/分析的に考えるだけのリソースが割けない)人々は、その情報について分析的に考えることをしない/できないため、いきおいその情報を主に「感情的なシステム(システム1)」でヒューリスティックに処理することになります。

(ここで「感情的なシステム(システム1)で処理する」とは、具体的には、情報そのものに対する分析的な思考に基づく判断ではなく、「情報」のまわりの周辺的な手がかり(情報から受ける「印象」「情報の発信者の信頼性」「その情報についての他人の意見」など)によってその情報をどう受け入れるかを決めることを指します。)

自問自答してみても、私も例えば、ヨーロッパの経済危機やTPPなどの情報については十分に分析的に思考するための経済リテラシーに欠けている(し、必要な経済リテラシーを得るために勉強の時間を割くほどには強い関心もない)ので、「情報の発信者の信頼性」や「信頼できると認識している人のブコメ」などを参考に情報を値踏みして受け入れているように思います(←「はてブヒューリスティックス」)。

また、さらに自問自答してみると、私の専門のリスクの分野に関しても「本当の意味で自分の専門」と言える領域はかなり狭いものだとも言えます。「本当の意味で自分の専門領域」と言えるのはおそらく「化学物質の生態リスク評価」ということになるのですが、近接した領域である「農薬の生態リスク評価」や「化学物質のヒト健康のリスク評価」に関しては、どこまで自前で「分析的思考」により判断できるかというと、かなり怪しい部分があることは否めません。(それらの部分に対する自分の判断は、自分の頭で分析的に考えて受け入れたものというよりも、信頼できると認識している近接領域の専門家のコメントや態度などの「周辺的手がかり」をもとにヒューリスティックに判断し受け入れている、という傾向が強い)


というわけで、まあみんな基本的には「感情的なシステム(システム1)」でけっこう情報処理してるよね!

という話になるかと思います。(人間だもの)

信頼をめぐる伝統的モデル:二要因モデル

さて、多くの人々が多くの場合に「感情的なシステム(システム1)」経由のヒューリスティックなやり方で情報を取捨選択しているとしましょう。

そのような状況におけるリスクコミュニケーションにおいては、リスクに関する情報の「専門的な内容」よりも、その情報・意見の発信元が「信頼できるかかどうか」という「周辺的な手がかり」のほうが、その情報・意見をどう受け入れるかを決める上でより重要になってきます。

まあ、実感的にも、ある情報について分析的な思考に基づき判断できないような場合には、とりあえず「信頼できる人」の情報を受け入れるというのは納得できるところかと思います。


では、そのリスクコミュニケーションにおいてとても重要なその「信頼」というものを導く要因とは一体何でしょうか?


上掲の中谷内さんの本によると、心理学においては、伝統的には以下のような「能力についての認知」と「誠実さについての認知」に基づく信頼モデル(二要因モデル)が長く採用されてきたようです*3

この図は何を表しているかというと、リスクに関する情報の提供者が「能力がある」かつ/または「誠実である」と情報の受け手の人が認識している*4ときに、情報の受け手は情報の提供者が「信頼できる」と感じるのだ、という考え方を表しています。

ここで「能力がある」というのは、具体的には「情報の発信者がその情報に関わる専門知識・経験・資格などを持っている」ことなどを指します。
また、「誠実である」というのは、情報の発信者が「手続き的に公正である」「オープンである」「人々への配慮がみられる」「性格として誠実・正直である」などの、「人々に対する姿勢としても、専門家としての自分の仕事に対する姿勢としても、誠実・真摯であること」などを指します*5


まあ・・・心理学者に指摘されるまでもなく「能力がなく誠実でもない人」の情報なんて受け入れたくはないですから、みなさまもこのモデルに対して山瀬まみ並にガッテンするのもやぶさかではないかと思われます。また、このようなモデルを基に考えると、私のようなリスク評価に関わるニンゲンとしても「より能力を研鑽し、誠実さと真摯さをもって仕事へと向かおう、がんばろう!」と決意を新たにしたくなります。


しかしながら。上掲の中谷内さんの本によると、1990年代半ばになってこの伝統的な二要因モデルに替わる新たなモデルとして「主要価値類似性モデル(SVSモデル)」というものが提唱されており、どうやらそのモデルがより妥当な場合が多いことが明らかになってきてるらしいのです。。

信頼をめぐる新たなモデル:主要価値類似性モデル

では、その主要価値類似性モデルとはいったいどのような考え方なのでしょうか。
『安全。でも安心できない』から説明文を引用してみます(p106):

アメリカ・ウェスタンワシントン大学のアールとスベトコビッチという研究者は、主にリスク管理者への信頼を説明するモデルとして主要価値類似性モデルを1990年代半ばに提唱した。


このモデルでは、人は相手の主要な価値が自分のそれと同じであると認知するとき、その相手を信頼すると考えられる。リスク管理の領域に当てはめていうと、ある個人が、リスク管理者は当該問題を自分と同じようにとらえ、問題解決のプロセスや結果において何を重視すべきか、という考えを共有していると感じると、そのリスク管理者を信頼するというものである。つまり、ここでいう主要価値とは提示されたリスク問題をどのように受け止めて、そこで何を重視し、どのような結果を望むか、といったことによって表現されるものである。

つまり、主要価値類似性モデルでは、人は自分と価値を共有する人を信頼するのだ、と考えるようです。(*ここでの「価値」という語は、人生観とか世界観とかいう大仰な意味での価値ではなく、特定の問題に対する「あるべき考え方」や「望ましい結果」についての見解、という程度の日常的な意味であることにご留意ください)

このモデルを図で表すと以下のようになるそうです*6

このモデルが前述の二要因モデルと大きく異なる点は、「能力があると認識する」「誠実であると認識する」ことは、信頼の「原因」ではなくむしろより上位の「主要価値の類似性の認知」の「結果」なのだ、考えるところにあります。(つまり、「能力についての認知」「誠実さについての認知」と「信頼」の関係は、「主要価値の類似性の認知」という共通の原因に起因する偽相関の関係である、ということ)

『リスクのものさし』から該当する部分を引用すると(p109;一部編集上の改変あり):

(前略)そこで、アールとスベトコビッチたちは、より直感的に判断しやすい価値の類似性によって信頼判断が下され、それに応じて能力や動機づけの程度が推定されるのではないかと考えるのである。したがって、能力や動機づけの側面が信頼と関係することはあっても、根本にあるのは直感的な価値の類似性評価であり、能力や動機づけが高く評価されるから信頼されるのではなく、逆に、信頼されるから能力や動機づけが高いと推定される場合も多い、というのである。


主要価値類似性モデルはリスク管理研究の領域で生まれてきたこともあって、これまで、この分野においてモデルを支持する実証的研究が数多く報告されている。

と説明されています。

この主要価値類似性モデルの内容を日常的な言葉でざっくりまとめてしまうと、いわゆる「人は仲間うちを信頼する(内集団びいき)」とか「人は見たいものとか信じたいもの(自分の価値と整合するもの)しか受け入れない」という人間のもつ普遍的な傾向に対応したものであり、私たちの日々の実感に照らし合わせても納得できるものであると思います。

ただ、このようなモデルを基に考えると、私のようなリスク評価に関わるニンゲンとしては、「私たちが能力を研鑽し誠実さと真摯さをもって仕事をすること自体は、価値が異なる人に信頼してもらうための努力としてはおおむね無意味である」というヒンヤリとした現実を突きつけられるのでちょっと鬱々としてしまうのですけども*7。。。

二要因モデルと主要価値類似モデルはどちらも表面上は似ているように感じるモデルではありますが、この辺りの「信頼を得るためにはどうすればよいのか」ということに対する含意はかなり異なってくるという側面があります。


さて。では、リスクに関するコミュニケーションを捉える上では、上述してきた「二要因モデル」と「主要価値類似性モデル」のどちらが妥当なモデルなのでしょうか?


これは結論から言うと、リスクコミュニケーションに関する事例に対しては主要価値類似性モデルがおおむね妥当な場合が多いが、本当のところは個々の問題の文脈にもかなり依存する、としか言いようがないようです*8。ただし、ある程度の法則性はあり、ちょっと直感に反するような気もしますが、「主要価値類似性モデル」は「関心の低い問題(関心の低い人々)」よりも「関心の高い問題(関心の高い人々)」に対してより当てはまりが良いという傾向が見られるそうです。

その傾向について、中谷内さんはこう考察されています(『安全。でも安心できない』p112):

つまり、関心の高い人にとってのリスク管理者に対する信頼判断というのは、相手が自分にかわって解を見いだしてくれそうかどうかを判断することではなくて、すでに自分の中で明確になっている価値を相手が共有しているかどうかを判断することになる。したがって、信頼を置く上で最も重要な要素は、相手との主要価値類似性ということになる。相対的に、解を見いだすための専門知識や能力の重要性は下がり、また、動機づけ評価についても、もうすでに解はでているので、解を求める上での公正な視点の重要性などは低くなるだろう。

なるほど。関心の高い人々は多くの場合すでに自分なりの「結論」を持っているので、情報提供者の能力や誠実さよりも、その「結論」が共通かどうかというところが重要となり、それ故に主要価値類似性モデルが妥当しやすいということですね。

さて。

では、ある関心の高いリスク問題が生じた場合に、そのリスクコミュニケーションにおいて主要価値類似性モデルのような情報の受け入れ方が優占した場合には何が起こると考えられるでしょうか?

(*以下については、中谷内さんの本の内容の範囲を超える話になります)

価値が、それぞれにとっての"信頼に足る科学"の衣をまとってぶつかり合う

ある関心の高いリスク問題が生じた場合に、そのリスクコミュニケーションにおいて主要価値類似性モデルのような情報の受け入れ方が優占した場合には、おそらく半ば必然的にそれぞれの「価値」のまわりにそれぞれのとっての"信頼に足る科学"が形成され、その間での衝突が起きるのだろうと私は考えています。

図にすると以下のようなイメージです:

このような状況になると、社会的意思決定においてはいくつかの困った問題が生じてくると考えられます。

(私の個人的な見解としては、個人レベルでは、情報提供が適切になされており本人が納得した上でのことでなら、各自が自分のお気に入りの「"信頼に足る"科学」を身にまとうこと自体に関しては、自己決定の原則からして否定しがたいものであると考えています*9。そのため、以下では社会的意思決定のレベルにおける問題のみを扱います)

上のような状況になると何が困るかと言うと、ひとことで言えば「本来の論点がズレてしまい、本来話し合われるべきことが十分に話し合われない」ということに尽きるかと思います。

上記の図の対立の本質は、「価値の対立」にあります。そのため、本来そこで対話により解決/合意形成されなければいけない問題も「価値の対立」なのです。しかし、それが「科学における対立」という擬似対立のアングルで捉えられてしまうことにより、本来話し合われるべきことが後景になってしまったり、本質的な論点ではないところで議論が膠着状態になってしまったり、ということが起きてしまいます。

もちろん、「科学における対立」というものそれ自体が存在することも確かですが、それが「価値の対立」と混同されてしまうことはおそらく建設的な議論の妨げにはなっても助けにはならないでしょう。そのため、「科学における対立」は「科学における対立」として整理をする必要がでてくるわけです。


で、そこで、「共同事実確認」のような試みが必要になるということになるわけです。(やっとこの話に戻ってこれた...)

[まとめと宣伝] それでも合意形成へ向けて:共同事実確認

はい。まとめます。

上記では、人々の関心の高いリスク問題が生じた場合には、主要価値類似性モデルで示唆されるような情報の受け入れが行われ、それ故に異なる価値を持つ人々の間において、"科学の対立"というアングルが生じるのではないか、ということを述べてきました。

そして、建設的な議論を進めていくためには、そのような「"科学の対立"というアングル」を、「価値の対立」と「(正味の)科学における対立」に腑分けして整理をする必要がでてくるわけです。

そして、そのような「科学における対立」が存在することを前提とした上で、ほぼ全てのステークホルダーが納得できる科学的根拠*10について、ステークホルダーと専門家との「協同」で「事実確認」していく、というのが「共同事実確認」という方法論です。そして、そのような手法が、現在そして今後求められている/求められてくるのではないでしょうか。


はい。


さてさて。とはいうものの、「共同事実確認」って実際どんなかんじなのか良くわからないですよね?
そんな方には:


こちらの12月8日(木)のセミナー@国環研をオススメいたします!

東大松浦正浩さん公開セミナー「マルチステークホルダー状況下における合意形成と科学的情報の接続」の告知(正式版) - Take a Risk: 林岳彦の研究メモ


といわけで、多くのみなさまのご来場を心よりお待ちしております。まことに何卒よろしくお願いいたしまっす。。。
(今回も長尺エントリーをお読みいただきありがとうございました)

*おまけ:関連するのかもしれないエントリー*

「欠如モデル」と「欠如モデル批判」についての覚書 - r_shinehaの日記
上記の「欠如モデル」の話を裏側(心理学的な方向)から眺めると、今回の「二要因モデル」「主要価値類似性モデル」の存在が透けて見えるのかも、と思ったりしました。

*1:あんなに(包容力が)小さかった子がついに。。。感無量です。。。

*2:『実践!交渉学』と『安全。でも安心できない --- 信頼をめぐる心理学』は、マルチステークホルダー間における"合意形成"について2つの異なる学問的観点から記述したものであるとも言えますので、両者を読んでみて頭のなかで立体化していろいろ(例えば「ハシズム現象」について)考察してみるとちょっと愉しいのではないかとも思います。併読もぜひオススメします

*3:図は『リスクのものさし』p197の図より編集上の改変ののち引用

*4:実際に能力があるかどうかではなく、受け手がそう"認識している"かどうかが鍵

*5:やや拡がりをもった意味内容を含んでいると思われるかもしれませんが、アンケート結果について因子分析するとそれらの要因が1つにまとまるらしいのです。詳しくは中谷地さんの本をご参照いただければと

*6:『リスクのものさし』p197の図より編集上の改変ののち引用

*7:心理学って身も蓋もないのでキライさ

*8:詳しくは『安全。でも、安心できない』をご参照ください

*9:もちろん、他者への危害とならない限りにおいて

*10:注:「科学的根拠を確認」といっても、一意に定める必要があるわけではなく、納得出来る科学的根拠の「幅」についての「確認」でもよい