どもです。林岳彦です。いまだに壇蜜と檀ふみの区別がつきません。
さて。
1月はずっとPM2.5の基準値に関するUS EPA(米国環境保護庁)の文書を読んでいました。で、それらの膨大な文書群(総計約5000ページ!)をチェックしていく中で、「学術知と政策を繋ぐセクションにおける日米のマンパワーの差」について改めて痛感せざるをえない部分がありましたので、今日はその辺りについてつらつらと書いて行きたいと思います。
「経済学」と「政策」のあいだ:日本のマクロ経済モデルの"中の人"の数
さて。どういうところから話を始めようか迷ったのですが、とりあえず経済学界隈の話から始めてみようかと思います。
SYNODOSの「日本を変える知」という本の中で:
経済学者である飯田泰之さんが「学術知と政策を繋ぐマンパワー」について語っているところを引用してみます(69pより引用、強調引用者):私はいま、経済社会総合研究所という内閣府の部署で、日本のマクロ経済モデルの現代化に関する研究・開発グループに所属しています。自分で言うのもなんですが、結構重要な仕事だと思います。
それを何人でやっているかというと、専任が2人、任期付専任が2人、私のような客員が3人で、あとは外部有識者の協力という体制です。従来型のマクロモデルの改善に当たっている人数はもっと少なくて、しかも担当者はしょっちゅう異動で変わるので知識が蓄積されない。マクロモデルを作成しているのは政府では内閣府と日銀くらいですが、日銀も内閣府よりやや大きいグループが二つ三つあるくらいのようです。
この状況を海外の中央銀行関係者に説明してもたいていは信じてくれません。たとえば、カナダでは中央銀行の部局ごと、そして省庁ごとにマクロモデルを開発しています。それぞれのグループに博士号を持ったエコノミストが何人も常駐し、リサーチアシスタントを使ってマクロモデルを開発しています。政策リサーチが必要だという認識が強いんです。アメリカに至っては、もう数えきれない数のシンクタンクが実証的な政策分析をしている。
それに比べて、世界第2位の経済大国でマクロ政策の大規模な分析・予想ツールを作っているのが、合計しても20人程度だなんて、考えただけでも恐ろしいですよ。
はい。
みなさまは、この:
「アメリカに至っては、もう数えきれない数のシンクタンクが実証的な政策分析をしている」
「世界第2位の経済大国でマクロ政策の大規模な分析・予想ツールを作っているのが、合計しても20人程度だなんて、考えただけでも恐ろしい」
という文章を読んでどう思いますか?
「考えただけでも恐ろしい」でしょうか?
もしかするとこの文章を読んで新鮮な驚きを感じる方も多いのかもしれませんが、あの、これ、日本の公的セクション系で働くひとにとっては実に「あるある」な話なんですよね。。。
「環境科学」と「政策」のあいだ:US EPAと環境省の"中の人"の数
では、私にとってもっと身近な例として、環境科学関連の事情を見てみたいと思います。
単純に、US EPA(米国環境庁)と日本の環境省の人数を比べてみます。
実はこんなかんじになっております:
US EPAが17359人、環境省が1235人です*1。人員数で10倍以上の差があります。
ただし、この比較はフェアではないかもしれません。なぜかと言うと、US EPAは行政組織であると同時に、研究機関も兼ねているからです。日本の感覚で言うと「US EPA = 環境省+国立環境研究所」というのがより実態に近いかもしれません。
では、国立環境研究所の人数も加えてみましょう(人数のソース):
はい。国立環境研究所の実質的な人数は390人程度なので*2、それほど人数は変わりません。
どちらにしろ、人員数は10倍程度の差があります。
もちろんUS EPAと日本の環境省では業務内容に違いがある(かもしれない)ので、単純な人数比較は厳密には余り意味がないかもしれませんが*3、それにしてもかなり人数に差があるわけです。
そうなんすよ。
プレーヤー側から見える景色:「野球場でオレひとりぼっち」的な不安
で、私の経験からは、このような彼我の「マンパワーの差」を実感する機会は普段はそんなにありません。
だがしかし、国際会議や国際学会などで欧米の公的機関系の中の人に会ったり、欧米のテクノクラート*4たちが本気で作った文書を読んでしまったりすると、やはりその圧倒的な彼我のマンパワーの差に正直目眩がします。
なんかですね、自分の感覚が「野球場のだだっ広いフィールド全体を全部ひとりで守ってる」という感覚だとすると、欧米のテクノクラートは「野球場のフィールド全体に9人、それぞれの領域に特化した高い専門性を持った人員がちゃんと配置されていて、それぞれの領域をがっちり守っている」ような感じなんですよね。で、そういう実情を目の当たりにしちゃうと
「あれ??? もしかして野球(テクノクラート)って本来そういうスポーツ(存在)だった!?」
的なものすごく根源的なカルチャーギャップおよび不安を感じてしまうんですよね。「圧倒的(に手薄)ではないか我が軍は」的な。テラヤバス(悪い意味で)的な。
なんというか、欧米でも日本でも「いわゆる"テクノクラート"が『学術知と政策』の間を繋いでいる」と言えるとは思うのです。でもその一方で、「欧米におけるテクノクラートと日本におけるテクノクラート」の量感って、 やっぱり「壇蜜と檀ふみ」の量感くらいには違うよね、という感覚も現場にはごくフツウにあったりするわけです。
欧米では「民間のテクノクラート」の層もまた分厚い
欧米と日本でのテクノクラートの違いに関して、もう少し述べてみたいと思います。(*ここからは、"テクノクラート"の語を「高度な学術的専門知を活かすことを求められて公共政策/行政に関わる人たち」という広義の意味で使っていきます)
実は、国際会議などに出たときに欧米と日本の差を最も感じるのは、公的セクション以上に、民間のコンサル/シンクタンク企業における「人材の厚さ」と「存在感」における差だったりします。欧米では、それらの企業に在籍する専門家がとてもディープに「学術的専門知を活かすことを求められて公共政策/行政に関わって」いたりします。というか、関わっているどころか事実上「胴元として主導」していることもあります*5。
日本だと、一般的にはコンサル企業は「官公庁の下請け」的な位置づけのことが多いように思います。一方、欧米ではそれらのコンサル企業と官公庁の「中の人」がしばしば入れ替わったりしてることもあり、学術知と政策を繋げる業務における「位置づけ・専門性・人材の厚さ」の全てでコンサルが官公庁に勝るとも劣らない実力と存在感がもっていたりします*6。
というわけで、公的セクションのみならず民間においても、欧米と日本における「学術知と政策を繋げる人材」の状況は「壇蜜の誕生日パーティと段田男の誕生日パーティ」の状況くらい大きく異なるわけです。
欧米の「テクノクラート支配」:"PhDリーグ"の存在
はい。では次は、欧米と日本における「テクノクラート支配」の違いについて考えてみたいと思います。
ざっくり言うと、近代以降の社会はとても複雑なので政策遂行において高度に専門的な知識が必要になることが多いです。その結果、(意思決定の"正統性"を持つ政治家や市民ではなく)テクノクラートが事実上の政治的決定を担いがちになります。そのような状況に起因する実害が大きくなると、「テクノクラート支配による弊害ガー」という声が出てきます(←今ココ)。
で、現代社会においては欧米でも日本でも文言としては同じく「"テクノクラート支配"が起きている」と言えるとは思うのです。ただし、欧米のそれと日本のそれはやっぱり「壇蜜写真集と仏壇写真集」くらい内実の異なるものであるように思われます。(*以下からは基本的に私の観測範囲に依る話でありエビデンスが不十分なので話半分に聞いてくださいね)
何が異なるかというと、欧米では高度に専門的な政治的決定に関して「政・官・学・産・民」における比較的広い範囲の利害関係者が関与できているように思います。なので、その意味での「権力の偏在」は、欧米では比較的弱いと言えるかもしれません。
但し、これってもう少し細かくというか意地悪く書き直すと、実際に関わることができるのは『「政・官・学・産・民」の様々な利害関係者(*但しPhDホルダーに限る)』だったりするんですよね。。。立場としてはいろんな方面のアクターが参加できるのですが、実質的な参加条件として「PhDホルダーであること」というのがわりと強固にあり、その意味で、学術知の担い手としての「PhDホルダー」に権力が偏在している、とは言えるのかなぁと思います。
また、このような状況を前提に、政・官・学・産・民がPhDホルダーを"用心棒"として採用することにより、政・官・学・産・民において「テクノクラート」の分厚い層が形成されてきているという側面もあるのだと思います。
一方、日本ではそもそもテクノクラート的な業務をしている人の中で博士号を持っている人は寧ろマイノリティだと言えるでしょう*7。なので日本には、欧米の"PhDリーグ(PhD/博士号を持っている人以外が議論に参加することが基本的に前提とされていないような場所/領域)"のようなものはありません。むしろ、先日の麻生財務相の「日銀総裁に学者はふさわしくない」発言に典型的に見られるように、日本では学術知よりも素人知の方が(善かれ悪しかれ)尊重される傾向があるように思います。
その意味で、日本の場合には、「テクノクラートへの権力の偏在」と言った場合にはどちらかと言うと、「政・官・学・産・民」の「セクター間での権力の配分」における「偏在」の意味が比較的*8強いのかなぁ、と思います。
PhDリーグにおける「学術的disciplineによる支配」
で、様々な立場を代表するテクノクラートたちによる"PhDリーグ"が形成されて、その中で"(サブ)政治"が回るようになって何が生じるかというと、良くも悪くも「学術的disciplineの支配」みたいのが生じてるのかなあと思います。(*ここでの「学術的disciplineの支配」というのは「法の支配」のニュアンスで理解いただければと思います)
欧米の"PhDリーグ"の中ではいろんな立場からのシュートな論戦が起こりうるのですが、"PhDリーグ"における基本的ルールとしての「最初に言っておくが学術的におかしいことはNGだぜ」という"掟"はわりと強いように思います。その"掟"によって、各自が持つ政治的思惑/ポジショントークの暴走に対して一定の歯止めがかかっているように思います*9。
一方、日本の場合には層としての"PhDリーグ"というものがなく(そもそも"リーグ"を形成できるだけの人数がいない!)、その結果としてテクノクラートによる「学術的disciplineの支配」の機能も弱いように思います。なので、わりと学術的におかしいことも政治的意向(というか単に少数の「声の大きい人」の意向)によってまかり通ってしまう傾向が強いのではないでしょうか。
地味だけど重要な問いとして:「何人いれば適切なの?」
はい。
では、最後にまた「人数」の話に戻って来たいと思います。
本記事の最初の方で、US EPAと日本の環境省の人数が10倍以上違うという話をしました。
さてさて。では、果たして、そもそも環境省には「何人くらいいるのが適切」なんでしょうかね?
人口比を考えれば、日本の環境省もUS EPAの1/3くらいの人数(6000人くらい)は居てもおかしくないでしょうか? あるいは寧ろ、人口が小さいからといって「対応しなければいけない問題の数」というのは単純に比例して減少するようなものではないので、US EPAと同じくらいの人数がいても良いのだ、という考え方もあるかもしれません。
あるいは逆に、テクノクラティックな業務のクオリティは人数には比例しないので、人数は今よりももっと少なくても良いのだ、という考え方もありうるのかもしれません。実際に、公務員の定員削減により官庁や政府系研究所の人数は着実に減らされてきていますし。
で、やっぱり、結局のところ、この「そもそも何人くらいいるのが適切なの?」という問いにはアプリオリな「正解」はないのだと思います。
でも、この問いって地味だけどとても重要だと思うんですよね。「官庁(および広義のテクノクラート)の中の人が少なすぎ」というのは、高度な学術的判断を伴う政策・行政の機能不全に繋がりうるひとつの明らかな「リスク要因」ですし、その「リスク」を我々(市民)はどこまで許容するべきなのか、というのは真剣に考慮に値する問いなのではないでしょうか?
(例えば、原発事故の前後で原子力規制委員会などが明らかに機能していなかった点を省みるにあたっては、この「そもそも原子力規制委員会には何人いるのが適切なの?/適切だったの?」という問いも主要な問いの一つとしてあってしかるべきだと思うんですよ)
まとめ
はい。というわけで今回も長くなってしまいました。
今回のキモを短くまとめてみます:
- 日本では学術知と政策を繋ぐ役割を担う「中の人」の数がとっても少ない
- プレーヤー側から見るとやっぱり正直不安だったりします
- 欧米では(善かれ悪しかれ)「PhDリーグ」による「学術的disciplineによる支配」が機能しているっぽい
- 「何人いれば適切か?」というのは地味だけどとても重要な問いだと思うよ
- 壇蜜と檀ふみは違う
はい。
うーむ今回はあまりとりとめないエントリーになってしまったような気もしますし、エビデンスに欠ける感想文的な話に終始してしまったような気もしますが、まあその辺りは割り引いてご理解いただければ幸いです(ども申し訳ない)。
(次回のエントリーからはしばらく「統計的因果推論」周りのエトセトラについてガッツリ書いていきたいと思います)
*1:*但しソースはwikipedia。環境省は定員数ではなく2011年の職員数
*3:ちなみに国立公園は日本では環境省の管轄ですが、米国では内務省の管轄です
*4:官僚や政府系研究所で専門知を活かして公共政策/行政に関わる人たち
*5:例えばこの時のOECDの会議もそうでした→[http://d.hatena.ne.jp/takehiko-i-hayashi/20110909/1315544002:title=過去記事]
*6:もちろん場合にもよりますが
*7:研究機関にいる人は殆ど持ってるけど、霞ヶ関にいる人は殆ど持っていない
*8:欧米と比較的した場合ね
*9:本当のところはよく分からんけど