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Take a Risk:林岳彦の研究メモ

自らの研究に関連するエトセトラについてのメモ的ブログです。主にリスク学と統計学を扱っています。

確率概念について説明する(第2回):そもそも「可能である」とはどういうことか? — 可能世界論

どもっす。林岳彦です。さいきん軽い気持ちで某国際誌の総説論文の査読を引き受けたのですが、「どんな論文だろ?」と思いつつ査読対象の原稿をいざダウンロードしてみたら本文100頁アンド全体300頁もある超長尺の総説であることに気づき、「殺す気か!」「査読テロやで!」と思いました。

いやでもまじで300頁もレビューするの? この悲しみをどうすりゃいいの? 誰がぼくを救ってくれるの? この世はまさに大迷惑???

というかんじです。もう街のはずれでシュビドゥバーです。


いやもうホントに「レビュワー感謝の日」みたいの作ったほうが良いよね。


というわけで。


今回から、確率概念について説明していきたいと思います。

(今回も非常に長い記事になってしまいました。すみません。。。)


確率という概念の「規格」について、様相論理を経由して説明します

前回の今シリーズの概要説明の記事で書いたように、まずは、確率という概念の「規格」について説明していきたいと思います。

ここでの「規格」という語は、「概念としての確率」が持っている「要件」みたいなものを指しています。例えば、「確率は黄色である」「確率は150km/hである」という言い方は意味が通っていないですよね。つまり、確率概念は「色」でもなければ「時速」でもないわけです。

本記事では、ひとまずは『どのような要件を満たす〇〇のときに「確率は◯◯である」という文の意味が通るか』を考えることを通して、「確率とは何か?」についてじわじわと考えていきたいと思います。

ちなみに、一般的には、この問い(確率概念が持つべき「要件」)の答えとしては単純にコルモゴロフの確率の定理を引いて終わりにすることも多いか思いますが、本シリーズではより原理的に様相論理を経由しながらの説明をしていきます。

まずはなるべくボンヤリと:「確率」って「可能性を数値で表したもの」ですよね

まずはなるべくボンヤリと考えていきます。あ。先に言っておきますが、本シリーズの大方針としては、なるべく日常的なボンヤリとしたものから徐々にformalな形へと展開していく形で説明をしていきたいと思います。(「まずはなるべくボンヤリと考える」=「まずは大域的サーチから始める」というイメージです)

さて。なるべくボンヤリと「確率ってなんだろう」と考えてみましょう。わたしの場合、ボンヤリと考えた結果:

少なくとも、「確率」とは「可能性を数値で表したもの」

というのを先ずは思いつきました。まあ、ボンヤリと考えを巡らせるための出発点としては悪くないように思います。

はい。

ひとまず、確率は「可能性を数値で表したもの」であるとしましょう。さて。では、その「可能性」というものはいったい何なのでしょうか?

「可能である」とはそもそもどういうことか

さてさて。「可能性」とはいったい何でしょうか。

ちょっと途方もない問いのようにも思いますが、学問というのはありがたいものでひと通りの考え方が既に整理されていたりします。以下では、論理学/分析哲学における様相論理の考え方をベースに考えを進めていきたいと思います。


さて。ひとまず、「可能性」というのは「可能であるという性質」という意味であると考えられると思うので、ここではさらにそのコアを為す部分である:

可能である」とは何か

について考えていきます。

ここで、とりあえずの方針として、任意の事象Aについての:

「Aは可能である

という文について考えていきましょう・・・と思ったのですが、ここで抽象的に”A"と書いても我ながら余りにピンとこなかったので、より具体的な例をAに代入して:

「A = 2020年にブエノスアイレスに雪がふること」

という例を用いて考えを進めていきたいと思います*1

さてさて。ではでは:

「2020年にブエノスアイレスに雪がふることは可能である

という文において「可能である」というのは一体どういう意味なのかについて考えていきます。


まず上記の文に対応するものとして浮かぶのは「今までもブエノスアイレスに雪がふったことがある」という意味内容かもしれません。ふむふむ。これは良さそうです。

しかし、もしここで逆に考えを辿ってみると、「今までブエノスアイレスに雪がふったことがない」ならば、「2020年にブエノスアイレスに雪がふることは可能でない」ということになってしまいます。これは、そうとも言い切れないように思います。

というか、この論法が正しければ、「初めて起こること」は全て「可能である」ことの範囲に入らなくなってしまいます。(例えば、「今まで私がNatureに論文を載せたことがない」ことをもって、「私がNatureに論文を載せることは可能である」ということが論理的に否定されるかというと、そういうわけではありません・・・論理的には・・・)

逆から考えてみると考えやすそうなので、もう少し逆から考えてみましょう:

「2020年にブエノスアイレスに雪がふることは不可能である(=可能でない)」

とはどういう意味でしょうか?

これは、単に「今までブエノスアイレスに雪がふったことがない」ということだけではなさそうです。もっと意味内容として適切なのは:

いかなる場合・条件においても、2020年にブエノスアイレスに雪は降らない」

といった意味内容になるかと思います。これは、上記の文中の「不可能である」ということの意味内容にちゃんと対応しています(よね?)。

一方、ここからひるがえって、「2020年にブエノスアイレスに雪がふることは可能である」という文については:

「2020年にブエノスアイレスに雪が降るような場合・条件が少なくとも1つある

という意味内容を対応させることができます。これは、上記の文中の「可能である」ということの意味内容にちゃんと対応しています(よね?)。

はい。

ここでまとめとして一般的/抽象的な形式に戻しますと:

「Aは不可能である」=「いかなる場合・条件においてもAは真ではない」
「Aは可能である」=「Aが真であるような場合・条件が少なくとも1つある

と表すことができます。

ここまではよろしいでしょうか。

(*この辺りの議論をもっと厳密に行うためには、論理式を用いて考えることが必要となってきます。論理式を用いた説明については本記事末の参考文献をご参照ください)

可能世界という枠組みを導入する

はい。上記でボンヤリと考えてきた結果として:

「Aは不可能である」=「いかなる場合・条件においてもAは真ではない」
「Aは可能である」=「Aが真であるような場合・条件が少なくとも1つある

というところまで到達することができました。

ではここで満を持して、「可能世界possible worlds)」という言葉/枠組みを導入したいと思います。とはいえ大したことをするわけではなく、上記の「異なる場合・条件」という表現を「異なる場合・条件が成立している世界」という表現/枠組みで捉えていくだけです。

例えば、「2020年にブエノスアイレスに雪がふる」ことに関して「2019年の南半球の平均海水温」が重要な要因となっている場合を考えてみましょう。

ここで、「2019年の南半球の平均海水温が10度であるという条件において」という条件文を「2019年の南半球の平均海水温が10度である世界において」という表現/枠組みで捉えていくのが可能世界論のアプローチになります。(*注意*分析哲学/様相論理のプロから見てこの説明が妥当なのかは正直あまり自信がないです)

このとき、可能世界は無数に存在することができて、「2019年の南半球の平均海水温が10度である世界」「2019年の南半球の平均海水温が11度である世界」「2019年の南半球の平均海水温が12度である世界」「2019年の南半球の平均海水温が13度である世界」・・・などなどの諸「可能世界」が存在しうることになります。

もちろん、可能世界としては「平均海水温において異なる諸世界」だけではなく、他のあらゆる事項についての諸「可能世界」を考えることができます。


そのようなあらゆる事項についての諸「可能世界」が存在するという枠組みを用いると、「2020年にブエノスアイレスに雪がふることが可能である/不可能である」という文の意味内容を:

  • 「2020年にブエノスアイレスに雪がふることは不可能である」=「全ての可能世界において2020年にブエノスアイレスに雪はふらない」
  • 「2020年にブエノスアイレスに雪がふることは可能である」=「2020年にブエノスアイレスに雪がふる可能世界が少なくとも1つある

という「可能世界の集合」にもとづく枠組みにより表現することができます。

ついでに言うと「2020年にブエノスアイレスに雪がふることは必然である」というのは:

  • 「2020年にブエノスアイレスに雪がふることは必然である」=「全ての可能世界において2020年にブエノスアイレスに雪がふる」

と表すことができます。

可能世界論の枠組みに基づき「必然性」を表現すると、「全ての可能世界において真である」になるわけです。

さて。

以上で見てきた例は未来における可能世界の例ですが、現在や過去の例でも「可能世界」を考えることはできます。例えば、「2014年3月における日本の総理大臣が安倍晋三である」という可能世界も、「2014年3月における日本の総理大臣が菅直人である」という可能世界も考えることができます。この前者は「事実的世界(factual world)」であり*2、後者は「反事実的世界(counterfactual world)」と呼ばれるものになります。(ちなみに、統計的因果推論ではこの反事実的世界をどう捉えるのかが本質的なテーマとなっています→ 過去記事例1過去記事例2

また、可能世界としてはもっと荒唐無稽な世界も考えることができます。例えば、「ある朝に目を覚ましたときにあなたが巨大な虫になっている世界」や「この世界と全く同じ内容を持つが時間の流れだけが未来から過去へと進んでいる世界」も可能世界の1つとして考えることができます。

ただし、そのような荒唐無稽な世界まで考えた場合には、おおよそ言語で表現できるものはなんでも「可能」になってしまいそうなので、「私たちが居るこの世界(今後、「この現実世界@」と表記します)」の近傍の可能世界のことだけを考えることもあります。ここで、「近傍の可能世界」というのは、「この現実世界@」から大きく隔たらないような諸可能世界のことになります。例えば、「ある朝に目を覚ましたときにあなたが巨大な虫になっている」ことが真である世界というのは、「この現実世界@」とは異なる物理法則や生物的法則が支配している世界であると考えられるため、「この現実世界@」の「近傍の可能世界」とは言えないでしょう。

日常的用語としての「可能である」という句の用法をベースに考えることが目的であるならば、「この現実世界@」の近傍の世界に「可能世界」の範囲を定めるほうがよさそうです。(荒唐無稽な条件においてのみ成立する事象に対しては、我々は通常は「可能である」という語を用いないので)

このとき、「Aは不可能である/可能である/必然である」というのを一般的/抽象的な形でまとめると:

  • 「Aは不可能である」=「全ての(近傍の)可能世界においてAは偽である」
  • 「Aは可能である」=「Aが真である(近傍の)可能世界が少なくとも1つある
  • 「Aは必然である」=「全ての(近傍の)可能世界においてAは真である」

と表すことができます。上記での「近傍」というのは「この現実世界@」から見た場合のものになります。

このように、「可能である」ということについては、「この現実世界@」の近傍の可能世界の集合の枠組みにより表すことができるわけです。

まとめ

はい。というわけで、今回の記事では:

少なくとも、「確率」とは「可能性を数値で表したもの」

というボンヤリとした出発点から:

「可能である」ということについては、「この現実世界@」の近傍の可能世界の集合の枠組みにより表すことができる

というところまで到達することができました。

一応、今回の記事の内容をまとめておきましょう:

  • 可能世界論のアプローチでは「条件ZにおけるA」というのを「Zが成立する世界におけるA」と捉える
  • 可能世界は無数に存在しうる
  • 「この現実世界@」で真であることが真である可能世界は「事実的世界(factual world)」である
  • 「この現実世界@」で真であることが偽である可能世界は「反事実的世界(counterfactual world)」である
  • ちなみに統計的因果推論ではこの「反事実的世界」をどう捉えるのかが本質的なテーマである(過去記事例1過去記事例2
  • 「可能世界の集合」により「不可能性/可能性/必然性」を表すことができる
    • 「Aは不可能である」=「全ての可能世界においてAは偽である」
    • 「Aは可能である」=「Aが真である可能世界が少なくとも1つある」
    • 「Aは必然である」=「全ての可能世界においてAは真である」

はい。だいだいこんなかんじになるかと思います。


本シリーズの次回(第3回)では、「可能世界の集合における各可能世界の”面積”を数字で表す」というアプローチにより、可能世界論からコルモゴロフの確率の定理へのソフトランディングを試みていきたいと思います。

参考文献

今回の記事における様相論理/可能世界論の説明には不備があるかもしれないので、適宜以下の文献をご参照いただければと思います。何卒よろしくお願いいたします。

論理学をつくる

論理学をつくる

論理学一般のちょう分厚いテキストです。様相論理についても載っています。

可能世界の哲学―「存在」と「自己」を考える (NHKブックス)

可能世界の哲学―「存在」と「自己」を考える (NHKブックス)

可能世界論についての日本語で書かれた入門書です。この本を読んだことで私はこの路線に深入りしてしまいました。

多宇宙と輪廻転生―人間原理のパラドクス

多宇宙と輪廻転生―人間原理のパラドクス

さらに可能世界という考え方をこじらすとこんなふうになるという本です。素敵だと思います*3

*1:もちろんここで「ブエノスアイレス」という固有名の問題には深入りしませんがご容赦ください。さすがにそこに深入りするほどの勇気はないっす

*2:もし私とあなたが同一の「この世界」に居るのならば、ですが

*3:素敵という言葉と素数という言葉は近傍に存在すると思います