Take a Risk:林岳彦の研究メモ

自らの研究に関連するエトセトラについてのメモ的ブログです。主にリスク学と統計学を扱っています。

フィッシャーの「統計的方法と科学的推論」が面白すぎる(その5)

引用メモその5。

第2章「初期の試みとその難点」の「4.確率の意味」から。フィッシャーの確率概念の捉え方が垣間見える。(特に断りのない限り強調は引用者)


確率の数学的定義に関する言及:

しかし数学的な定義は、単にその言葉が演繹的な数学的推論の中で用いられたときに、それに適用される公理の簡単な説明にすぎないことが多い。その言葉が現実の世界において正しく適用されるための条件については、必要なだけの注意が払われていないことがありうる。この適用のための条件こそ<応用数学>を任務とするものが当然関心を持つところである


確率概念についての言及。ここは慎重な読みが必要かも。

実際、この問題に関連して、確率という言葉が賭けをする人のように実際的な関心を強く持っている人にとって何を意味するかを考えるならば、一つのかなり簡単な語義上の混乱をすぐに指摘できると思う。その人はたとえば、一つのサイコロを投げて1の目が出るかどうかによって、金をもうけるか失うかという状況にあるとしよう。このような人にとって”もしn回の思考のうち1がa回でるとすれば、a/nと1/6の差の絶対値が任意の正の値を超える確率は、それがいかに小さくても、nが無限に増加するにつれて0に近づくであろう”というような命題は、単にかけ離れていいるだけでなく、彼の関心がある特定のサイコロ投げに適用するには不完全で、明確さを欠いているように思われるであろう。実際、この命題自体としては、その特定の場合については何もいっていない。のみならず、将来のサイコロ投げの多くの部分集合(それは彼自身の場合を含んでいるかもしれない)が、このような意味で1/6より大きいかあるいは小さい確率を与えることが示されるかもしれない。全体の集合の極限の比が、特定の場合に適用できるものとして受け容れられるためには、第2の条件が満たされねばならない。それはすなわち、サイコロを投げる前にこのような部分集合を識別することができないということである。これが将来の可能なサイコロ投げ全体の集合における極限の比を、任意の一つの場合の確率として適用できるための必要十分条件である。この条件のもとで、われわれは特定のサイコロ投げ、あるいは一連のサイコロ投げを、その集団からの確率標本として考えることができる。その集団はこの意味で主観的に同質で、識別可能な層別化はできない。

慎重に読んでいくと、ここの議論(将来のサイコロ投げと極限の頻度比の関係について)においてはフィッシャーは明確に頻度主義的というよりは主観主義的な立場を採っている*1ように読める*2

*1:「ある特定の主観的な条件下でのみ頻度主義的な確率概念の適応が可能となる」という立場

*2:と私は感じましたが、皆様はどう読まれますでしょうか?