フィッシャーの「統計的方法と科学的推論」が面白すぎる(その12)
前回に引き続き、今回もいわゆるフィデューシャル推測の節。今回が本節(第3章3節 推測度による論法)の最後となります。
前回の部分の引用の続きで、フィデューシャル推測の確率論としての取り扱いについての議論がされています(強調は引用者):
ハロルド・ジェフェリース(Jeffreys 1940)卿およびA.コルモゴーロフ(Kolmogorov 1942)を含めた多くの学者は、推測度型の論法の合理的な力を認識し、それを確率論で用いられている通常の形の命題と同一に扱うことの困難を認め、溝と感ぜられているところに橋を渡す新しい公理の導入を提案した。この本では、新しい公理を取り入れては論じていない。ただ”確率”という言葉の意味論上固有なある性質を利用している。しかしこの性質は、ここで述べた論理関係が現実世界に適用可能かどうかが問題にならない限り、表だって必要でない。形式的な確率の数学の純抽象的な研究は、現実世界における意味を無視して展開することも可能ではある。数学的定義が公理的な意味をもつべきである、ということはもちろん異常ではないし、しばしばそうである。この場合にはっきりしなければならないのは、言葉の定義を完全にすることより、当面している論理的状態に必要な、知識ではなく無知の性質と程度が明確に定まることである。そして、純粋に演繹的な推理が適切な場合のように、利用可能な公理的資料の任意の部分集合から正しい演繹が導かれることが仮定されている限り、ヴェンの言ったように、”無知は自らのみに影響し、事物においてはいかなる区別とも対応しない”と論ずることができる。しかしながら、初期の学者たちが考えたような数学的確率は、現実の世界に適用可能である。そうして、それを演繹推理だけでなく帰納推理にも利用可能とするには、より完全な定義が必要である。確率命題の主題は、既知の割合がある条件をみたすような可測な集合に属さねばならないだけでなく、主題が属し、かつ異なる割合をもつようなすべての部分集合が認識不可能でなければならない。
この部分が本節の最後となります。
ちょっと自分にはよく論理展開が分からない部分もあります。どうやら、推測度型の論法には確率論の一般的な公理に合わない部分があるようですが、フィッシャーは余りその部分には頓着していないように見えます*1。現実世界云々の話への展開は議論としては筋が悪い*2ような印象もなくはないですが、フィッシャーはあくまで「数学者」ではなく「統計学者」なんですな、という感じですね。まあ確かに「推測度型の論法が現実の世界における有意味な帰納的推論に大きく寄与するものであるならば、それが確率論の公理を満たさないことがあるということが何の瑕疵であるのか」と開き直ってしまえば、そういう立場もありうるのかもしれません*3。
「確率命題の主題は、既知の割合がある条件をみたすような可測な集合に属さねばならないだけでなく、主題が属し、かつ異なる割合をもつようなすべての部分集合が認識不可能でなければならない」というのは私が昔書いた記事での論点にも対応するような気がします*4。このあたりはリスク評価の実務についても重要かと思われます*5。この問題っていわゆる”exchangeablity”の議論になるのかな?
*1:ディフェンスできないからかもしれないですが
*2:というか、はぐらかされている
*3:この辺り、もしかしたら自分は見当はずれの議論をしているかも
*4:が、対応しないかもしれない。ちょっとよく分かってない可能性あり
*5:現在のリスク評価法の発展の潮流を見ると、「確率論的リスク評価」という部分集合のある種の認識不可能性を前提としたアプローチと、「ハイリスクグループ」のような部分集合を特定・明示化していこうというアプローチの、ある意味相反する流れが同居しているように思われる。もう一歩踏み込んで書くと、今後はその相反した流れを止揚するために(階層)ベイズモデルが本格的に召喚されることになる、というのが私の相場観