フィッシャーの「統計的方法と科学的推論」の訳者解説が素晴らしすぎる(その10)
前回からの続きとなります。今回が遂に最終回です。
今回はより大きな思想史の観点からの位置づけの議論となります。
引用していきます(強調は引用者):
これまでフィッシャー対ネイマンの論争点に則して解説してきたが、もう少し離れた点から評価すれば、フィッシャーの推測理論の考え方は、やはりイギリス流の経験論の流れにのっているものとみなすことができる。カール・ピアソンはいうまでもなく”経験批判論”の代表者の1人として有名であるが、フィッシャーが、この点でピアソンの考え方からはなれているとは思われない。フィッシャーのいうところはあくまでreduction of data、すなわち得られた知識を整理することである(economy of thought!)。またフィッシャーの論理、とくに帰納論理というものに対する考え方も、たとえばJ. S. ミルの帰納論理学のようなものを想定し、それを確率概念を用いて精密化しようとしているにすぎないように思われる。かつてフィッシャーの考え方の弁証法的性格を云々されたことがあったが、フィッシャー自身の中心思想はこれよりほど遠い。
ここではフィッシャーをイギリス経験論の流れの中に位置づけています。確かに。フィッシャーは観念論的/大陸的(?)な公理主義的確率論には殆んど興味ないですしね。
続き:
この書物の基本的な目標として、普遍的な科学方法論としての合理的な帰納推理の建設が掲げられているが、現在の統計学(あるいはそれを推測と計画の科学と名付けようとも)にそのような任を負わすことは不当ではなかろうか。それは第1に、帰納推理における形式的、数学的な側面を強調し過ぎることになるし、第2に、科学法則の探求における帰納の面のみを強調して弁証法的な飛躍を無視することになろう。フィッシャーは絶えず自然科学の研究に直接従事している立場を強調している。フィッシャーの遺伝学、優生学研究について筆者は学んでいないので、かれ自身どのように定量的な帰納推論の有効性を発揮しているか評価できないのであるが*1、少なくとも他の科学たとえば経済学などに応用されたとき、統計的方法の無批判な適用が機械的形式的な展開をもたらす危険性は否定できない*2。
ある意味「このような任」は現在ではベイズ統計に負わされつつあるのかもしれない、とか思います。
続き:
またネイマン=ワルドの考え方についていえば、それが広くアメリカで受け入れられたことは、アメリカのプラグマティズムに彼等の考え方がよく適合したためであるといえよう。生活のあらゆる面での規格化、大量化によって、その理論が正しく適用できる場が拡大していることは否定できず、その極端としてオペレーションズ・リサーチという領域まで生じたのであるが、さらに思想面でも、論理的厳密さを追求するよりは、ある分野で成功した概念を大胆に他の分野に持ち込んだり、とにかく何等かの判断や決定の規準を作り上げたりする精神風土は、他のどこよりもアメリカで見出される。だが、無反省な売り込みは強い反動となって返ってこないとも限らない。十分賢明なO.R.ワーカーは、フィッシャーの極端な表現のように、万能の決定作成機会を売り込みはせず、最終決定権はあくまでもトップ・マネージャーの非数学的判断に委ねていることは興味ある事実である。
フィッシャー対ネイマン論争を、さらには現代の数理統計学全般についての考え方を理解し、かつ自らの見解を明らかにするためには、このようなその論争の思想的背景に、また他方ではその社会的背景にまでさかのぼって十分論じなければならないが、それはこの解説の範囲を超えるだろう。
ここではネイマン=ワルドの考え方をアメリカのプラグマティズムの流れに中に位置付けています。この後の流れを補足するならば、「大量生産の時代」から「情報の時代」へとシフトする中でベイズが主流となってきた、という感じでしょうか。
というわけで本書の引用/解説シリーズは今回で終了です。思ったよりもずっと長くなってしまいました。
お読みいただきました皆様、大変ありがとうございました。
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