Take a Risk:林岳彦の研究メモ

自らの研究に関連するエトセトラについてのメモ的ブログです。主にリスク学と統計学を扱っています。

フィッシャーの「統計的方法と科学的推論」の訳者解説が素晴らしすぎる(その7)

前回からの続きです*1。便宜上、段落の途中で引用を区切りますがご容赦ください。

ネイマンの考え方にたいするフィッシャーの批判ないし反発は、確かに的を射ている面も多いし、また論理一貫性を追って無理な批判となっている点も見られる。


近似的には同一の条件の下での多数回の追試は可能であろうとも、1回の推論の信頼性の裏付けとして、無限試行における成功率をもち出すのは確かに非論理的である。検定における水準というものは、やはり、合理的精神をもつ人の間で伝達可能な基準なのである。ある水準の結果によって人々は、あるいは採択された作業仮説に従って次の実験にとりかかるだろうし、あるいは追試をするだろうし、あるいは別の仮説を考えるだろう。このことさえ確認されれば、フィッシャーとネイマンの間の対立も薄れるのであるが、ネイマンの論理に忠実のあまりに、”実験を行うまえに水準を定めたならば結果によって仮説を採るか棄てるかだけが可能な判断で、5%の規準スレスレで棄てられたか、非常に有意な差があったか、などを考慮すべきでない”とまで論ずるのは実際の場を無視し過ぎている。決定理論でさえ多重決定の可能性を示しているのである。

実務上の問題として考えるとネイマンvsフィッシャーの対立は、仮説検定の"abuse"についての問題だったりするので、分かってる人がちゃんと運用する限りそんなに問題となる対立点じゃないよね、という解説。御意。

続き:

だが無限試行における特性というものを考えないならば、標本抽出法における有限母集団の推定はどのように裏付けられるだろうか。これについてフィッシャーはほとんど触れずに、むしろ肯定的な書き方をしている。しかし標本抽出法は科学実験と同様に法則性の追求を念頭にしており、設計の根拠はネイマン=ピアソン流の議論ではないだろうか。ただしここでも推定についてはやはり問題がある。それは不偏推定量の中で最小分散のものすなわち”最良”なものが決して存在しないことによって示される。

確かに標本抽出法に基づくかぎり、フィッシャーの議論も大きくはネイマン=ピアソン的頻度主義の範疇に入る気がします。


統計に関する現在の私の世界観としては、統計的推測------「帰納的推論を純演繹的推論体系(数学)により行う」といういささか倒錯的な試み------を可能とするために召喚される「ギミック」の種類には大きく分けて二つあり、それが「標本抽出」と「ベイズの定理」である、と考えています。そういう世界観の下だと、フィッシャーとネイマン=ピアソンは同じ袋の中に分類されるかと考えています。


不偏性の議論については、次回に続きます。

*1:本の215ページからの7節からの部分になります