低頻度高被害型リスクについて考える(1/3):可換性の問題
今回のシリーズではいわゆる「低頻度高被害」タイプのリスクに関して、「可換性」「不確実性」「認知的収支」という3つの視点から書いていきたいと思います。
ちょっとマニアック内容になるかもしれませんが、どうかご容赦ください(すんません)。
ベースとなる問い:「低頻度高被害」と「高頻度低被害」は比較できるか?
今回のシリーズ(全3回)においては
「10日に1度の確率で10人が死ぬ事象」と「10万日に1度の確率で10万人が死ぬ事象」は、どちらも「1人死亡/1日」という同一の表現で表すことができるけれども、それは本当に同一なものとみなして良いのだろうか?
という問いをベースに色々と考えていきたいと思います。
今回のエントリーでは、まず「可換性」の観点から考えてみたいと思います。
(注:以下は数学的に厳密な意味での「可換性」というよりも、あくまでアナロジーとして「可換性」という用語を使っているものとしてお読みいただければ幸いです。ちょっと他に適切な用語が浮かばなかったのです。すみません。。。>数学クラスターの方々)
可換性:入れ替えても同じ?
今回のエントリーではいわゆる「かけ算における"a×b"と"b×a"は同じとみなせるか?」という意味での「可換性」について考えていきます。つまり「可換」という語を
「かけるもの」と「かけられるもの」を入れ替えてもOKな場合は「可換」
という意味で使っていきます。
一般に、かけ算については「可換で当たり前」のような気もしますが、現実の問題との対応を考えた場合には以下のような議論にもなったりするけっこう深い問題です*1。
また、いわゆる普通の数の世界を離れると必ずしもかけ算の可換性は成り立ちません。例えば行列の「かけ算」は非可換ですし、腐女子の「かけ算」も非可換であることが知られています。
リスクの「かけ算」は可換か?
では、リスク概念における「かけ算」について考えてみましょう。
リスク概念を一般性のある形で定義する際には
リスク=f(起こる確率, 影響の大きさ)
と表されることが多いかと思います*2。ここでf(・)は任意の関数形を表しています。つまり、この式は「リスクの大きさ」は事象の「起こる確率」と「影響の大きさ」によって決まるということを意味しています。
で、この関数f(・)としては「かけ算」が使われることが多く:
リスク=起こる確率×影響の大きさ
と表されることも多いです。一般には、この形での定義がいちばん有名かもしれません*3。
さて、このリスクの「かけ算」は可換とみなせるでしょうか?
もちろん数学規則としては「可換」ですが、「この式によってモデル化されている現象」まで考えたときには必ずしも「可換」とは言えません。
例えば、「10日に1度の確率で10人が死ぬ事象」と「10万日に1度の確率で10万人が死ぬ事象」を考えてみましょう。この場合には、どちらも「1人死亡/1日」という同一の値で表すことができます。しかしながら、この2つの事象は、想像してみればすぐに分かるように、現象的にも倫理的にもリスク管理の観点からみても本来かなり異なる事象であるように思われます。
このように、リスクの「かけ算」は本来的には必ずしも可換ではありません。(つまり「起こる確率」と「影響の大きさ」の数字を入れ替えると事象の実質的な「意味」が変化します)
リスクのかけ算が「可換」となる条件について考えてみる
では、どのような場合ならこのリスクのかけ算を「可換」とみなせるかについて考えてみましょう。
より深く考えてみるために、ここで
リスク=起こる確率×影響の大きさ
の式における「影響の大きさ」の項の内訳について考えてみましょう。例えば、この「影響」を構成する要素として『命への影響』『健康への影響』『心理への影響』『経済への影響』『ソーシャル・キャピタルへの影響』『文化資本への影響』などなどを考えることができるかもしれません*4。
仮に各要素が足し算的に効くと考えることができるとすると:
影響の大きさ=b1×命への影響 + b2×健康への影響 + b3×心理的影響 + b4×経済的影響 + b5×ソーシャル・キャピタルへの影響 + b6×文化資本への影響...
と内訳を書くことができます。ここでb1, b2, b3, b4, b5はそれぞれの影響の相対的重要性をあらわす「重み付け定数」となります。この「重み付け定数」がどのような値をとるかは、社会的合意により決められるべき性質のものです。
ここで、最初の例に戻りましょう。「10日に1度の確率で10人が死ぬ事象」と「10万日に1度の確率で10万人が死ぬ事象」を比べてみます。
「10日に1度の確率で10人が死ぬ事象」のリスク(日当たり)は:
リスク = 0.1×[b1×命への影響(10人) + b2×健康への影響 + b3×心理的影響 + b4×経済的影響 + b5×ソーシャル・キャピタルへの影響 + b6×文化資本への影響...]
一方、「10万日に1度の確率で10万人が死ぬ事象」のリスク(年当たり)は:
リスク = 0.00001×[b1×命への影響(100000人) +b2×健康への影響 + b3×心理的影響 + b4×経済的影響 + b5×ソーシャル・キャピタルへの影響 + b6×文化資本への影響..]
となります。
このとき、実際に起きている事象の内実を想像すると、両者の事象では『健康への影響』『心理的影響』『経済的影響』『ソーシャル・キャピタルへの影響』『文化資本への影響』の項はおそらく同一とはいかないでしょう。
ここで逆に考えると、両者での「リスク」の値が必ず等しくなる(「確率×影響」のかけ算が「可換」となる)ための条件は、各重み付け係数が「b1>>>(超えられない壁)>>>b2, b3, b4, b5」という条件であることがわかります。つまり、「命の価値は他の何とも比較不可能なほど高い」という考え方を前提にした場合に(のみ)、この「かけ算」は実質的に可換であるとみなせることになります。
言い方を変えると
「10日に1度の確率で10人が死ぬ事象」と「10万日に1度の確率で10万人が死ぬ事象」は、「1人死亡/1日」という同一の値で表すことができるので同じ
という「考え方」の暗黙の前提には、「命の価値は他の何とも比較不可能なほど高い」という価値観があらかじめ含まれているとも言えるのです。
そのような暗黙の前提に必ずしも基づかないということを明示的にしたいのであれば、そもそもこのようなリスクについては「人命リスク」というより限定された用語を使った方がよいでしょう。
「人命リスク」と「それ以外」について考える
普通に考えてみましょう。
何らかのリスク事象を考えたときに、考えるべき大切なものは人命だけでしょうか?
大切なものは人命だけとはいえないでしょう。そのため、「リスク」について考えるのであれば、本来その項目は人命だけではなくその他の項目(健康、心理、経済、ソーシャル・キャピタル、文化資本etc...)への影響も考慮するべきでしょう。
では、また違う方向からも考えてみましょう。考察のための仮想例として「人命への影響」と「ソーシャル・キャピタルへの影響」の2項からなる次の二つの事象のリスクについて考えてみましょう。
- (1) リスク = 起こる確率(0.1/日) × [b1×命への影響(10人) + b5×ソーシャル・キャピタルへの影響(かなり大きい)]
- (2) リスク = 起こる確率(0.1/日) × [b1×命への影響(8人) + b5×ソーシャル・キャピタルへの影響(なし)]
この場合、(1)と(2)の場合の「人命リスク」はそれぞれ1人、0.8人/日となります。また、「ソーシャル・キャピタルへの影響」は(1)の事象の場合のほうが(2)の事象の場合よりもかなり大きいとします。
ここで、ソーシャル・キャピタルへの影響を勘案すると、場合によっては「(1)のリスクのほうが(2)のリスクよりも大きい」という判断になるかもしれません。この判断は一見穏当なものに見えるかもしれませんが、見方によっては事実上「ソーシャル・キャピタルとの連関が弱い個人(地域のソーシャル・キャピタルからあらかじめ疎外されている人々)の人命リスクを相対的に軽いものとしてカウントする」ということにもなりうる可能性もあるものです。
このように、人命リスクと比べて社会経済的影響などの項を強く重み付けしていくと、社会経済的影響が少ない事象では人命リスクが相対的に軽視されやすくなってしまうという別の問題がでてくる可能性があるので、こちらも慎重に考えていく必要があります。
この「人命リスクとその他のリスクをどう重み付けすればよいのか」という問題は、もちろん唯一絶対の答えがあるものではありません。そして実は、いわゆる「リスク評価」の前段階となる、そもそも「どの影響項目をどう重み付けして考えるべきなのか(リスクのフレーミング)」というこの問題こそがリスク管理において最も重要な部分だと言えます。多少脇の甘い言い方をするならば、フレーミングが適切ならば、あとは粛々とできるだけ科学的にリスク評価をするだけ、とも言えます。いやもちろん「科学的なリスク評価」も簡単じゃないですけれども、フレーミングの部分が不適切だと根本的にどうにもならないのです。
基本的に、このようなリスクのフレーミング(問題設定)は「社会的合議」によって決められるべき性質の問題となります。
「リスクのフレーミング」と「リスクの分配」
では、そのような「リスクのフレーミング」の際に考慮しなければならないものには何があるでしょうか。
もっとも重要な要素として考えられるのは、「リスクの分配」における公正性の問題です。リスク評価から出てくる「数」だけを見てしまうと、リスクがある特定の層に集中しているというような社会的不公正が逆に見えなくなってしまうということがあります。この「リスクの分配」については、関連するベネフィットとの兼ね合いの中で見ていくことが望ましく、「ベネフィットとリスクが社会的にどう分配されている状態が公正といえるのか」についてきちんと議論していく必要があります。
「リスクのフレーミング」には、このような「ベネフィットとリスクの分配」を考える上での枠組みをあらかじめ規定してしまう側面があります。そのため、「公正なリスクの分配」が実現されるためには、「リスクのフレーミング」の段階こそを真剣に検討していく必要があります。
「武器」ではなく「ボール」として:リスク分析の意義
上記にも書いてきたとおり、リスク分析というものには実はさまざまな暗黙の仮定を含まれています。また、「誰もが合意する完全なリスクのフレーミング」というものもありそうもなく、「リスク分析は常に誰かにとって不完全」であることを基本的に免れません。
では、リスク分析には意義はないのでしょうか?
私は、それは必ずしも意義のないことではないと信じています。なぜなら、人間というものは「比べてみないと大きさをよく把握できない」生き物であり、(さまざまな問題を抱えてはいるものの)「リスク分析」によって「数」を比べることによって、初めて問題のスケールが見えてくるという側面もまたあるからです。
例えば、私たちがいま現在抱えている地震・津波に起因する諸災害の大きさは計り知れないものです。また一方で、私たちの社会はいま「1年あたり3万人以上(10年あたり30万人以上)の自殺者」を生み出し続けています(Wikipedia)。この地震・津波に起因する悲劇のスケールの大きさから、改めてひるがえってこの日本の自殺の現況について眺めてみると、自殺という悲劇のスケールの大きさにも改めてまた言葉を失わざるを得ません。(日本は、こんなことでいいのでしょうか)
「リスク分析」は、議論相手を黙らせるための「武器」としてではなく、異なる価値観を持つ私たちが豊かな議論のキャッチボールを始めるために投げ入れられれる「ボール」として用いられるのならば、それはとても私たちにとって意義の大きいものであると私は思っています。
(ガルベスのように「ボール」を「武器」として使ったらいけません)
(*次回は「不確実性の問題」について考えていきます)
(*あといつか関連エントリーとして「客観的リスク評価など無い!:ベイジアンは熟議型民主主義を目指す」というのを書くつもりです)
関連文献
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リスクコミュニケーション論 (シリーズ環境リスクマネジメント)
- 作者: 平川秀幸,土田昭司,土屋智子,「環境リスク管理のための人材養成」プログラム
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