Take a Risk:林岳彦の研究メモ

自らの研究に関連するエトセトラについてのメモ的ブログです。主にリスク学と統計学を扱っています。

忘れるということがピンとこないことについて

どもです。林岳彦です。

前回の記事は深夜に書いていたのですが、投稿したときにちょうど日付けが変わって3月11日になっていて、何か書くべきかもと思ったのですがうまく考えがまとまらず、そのままになっていました。

そんな折、仙台在住の友人のブログを読んでたらああなんかすごくこの感じわかるわ、と思って気持ちが溢れてきてしまったのでそれをここに書き残しておきたいと思います。

そのブログ記事はこちら:
ES - 日々の散歩の折りに

上記の記事に触発されて、今回の記事は「忘れるということがピンとこないこと」を抱えながら生きている全ての人びとに向けて書いてみたいと思います。(うまく書けるかどうかよくわからないけど)

忘れるということがピンとこないということ

「忘れるということがピンとこない」というのがたとえばどういう感じなのか。上記の友人のブログを一部引用してみます(引用元):

ところでもう震災から3年が経とうとしているのだが、仙台に暮らしていると忘れることなんてない、と思うのだけれども、そうでもないと忘れられてしまうものなのだろうか。


まず普通に毎日「東日本大震災」という言葉を見たり聞いたりするわけだし、ふとした会話の中でも震災の話、というのはよく出てくるものである。だから最早生活の一部になってしまっているようなものなのだけれども、被災地でもなければそういうものでもないものなのだろうか。


私もあれから3年、もう所謂「普通の」生活に戻っている。津波被害とか建物の被害等がなかったから普通の生活に戻していくのは楽だったわけである。だから音楽を聴いたり仕事したりテレビを観たりラジオを聴いたり本を読んだり酒を飲んだりご飯を食べたりiPad買うかどうかで検討を重ねたり(結局買った)できているわけである。それでも毎日、ふとした瞬間に震災のことを思い出す。例えば車のガソリンが半分切ったらすぐに満タン入れたりするようになったのも明らかに震災の経験のせいであるわけで。


要は何と言うか色々なことの裏側にびっちりと「震災」が張り付いているような状態である。ちょっと表面の一部とかが剥げたり、継ぎ目の隙間あたりからすぐに震災が表れてくる、という。だからなんか「風化を防ぐ」、とか「忘れない」、とか言われてもピンと来ないものなのだけれども政治のありようとかテレビの番組での取り扱われ方とか見ていると、もしかしたら結構忘れられてしまいそうなことなのかな、とか思うようになった。

たとえばこういう感じです。この感じ、分かる人は分かるかと思います。分からない人は分からないかもしれません。

以下では、この「感じ」を私なりの表現で説明してみたいと思います*1

「本当に取り返しのつかないこと」による「この世界の条件付け」

うまく書けるかわかりませんが、説明してみます。

あなたに、"A"という「本当に取り返しのつかないこと」が起きたとしましょう。「本当に取り返しのつかないこと」とは、何らかの受け入れがたい原因によって、あるいはあなたにとってかけがえのないモノやコト、あるいは人の命が永遠に失なわれる ーーー たとえばそういうことです。

そのとき以降、あなたにとって「この世界」の在り方というものは:

p( この世界におけるx|本当に取り返しのつかないことA )

という形で映るようになるかもしれません。つまり、この世界における全てのxは、「本当に取り返しのつかないことAが起きたという条件付け」の下でしか存在しなくなるわけです。(以下、”A”について、あなたにとっての「本当に取り返しのつかないこと(恋人や子どもが亡くなる、など)」を想像して当てはめながら読んでみてください)

別の言い方をすると、この世界における全ての事象の可能性 ーーー 道を歩いたり、雲を見上げたり、コーヒーを飲んだり、同僚と喋ったり、恋人とキスをしたり、本を買ったり、ネットサーフィンをしたり ーーー そういった諸々の全てが、もはや「本当に取り返しのつかないことA が起きたという条件付け」の下でしか存在しえないということです。


これはある意味、論理的な話でもあります。

なぜなら、実際に「本当に取り返しのつかないことAが起きてしまった」のならば、この世界においては、もはや「本当に取り返しのつかないことAが起きた」という事実的条件付けからは逃れることはできないからです。

たとえあなたが北極へと逃げたとしても、銀河系の遠くかなたの星まで逃げたとしても、この世界において「本当に取り返しのつかないことAが起きてしまった」あとでは、最早この世界のどこをどう切り取っても「本当に取り返しのつかないことAが起きてしまった」という事実により既に条件付けされてしまっているのです。(金太郎飴のように)


「本当に取り返しのつかないことが起きてしまった」とき、多くの人は世界に対してこのような「感じ」を持つようになるのだと思います。

そもそも「忘れるということ」ができるもの、できないもの

本当に取り返しのつかないことが起きてしまい、この世界の在り方というものが:

p(この世界におけるx|本当に取り返しのつかないことA )

という形で映るようになってしまった人にとっては、「本当に取り返しのつかないことAが起きた」ことを「忘れるということ」がどういうことなのかよく分からなくなります。

なぜなら、そのような人にとっては「本当に取り返しのつかないことAが起きた」ことは「この世界が在る」ことそのものと最早区別がつかなくなってしまっているからです。


・・・このニュアンスを伝えるために、ポケモンのゲーム(RPGシリーズ)にたとえてみたいと思います。(ポケモンのゲームをやったことがない人には全く分からないたとえになるかもしれませんがすみません)

ポケモンのRPGシリーズのゲームでは、各ポケモンは4つまでワザを覚えることができるようになっています。もし、あるポケモンが既に4つのワザを覚えている場合には、新しいワザを覚えるためには現在覚えているワザの1つを忘れる必要があります。そして、もし一度ワザを忘れてしまえば、もうそのワザのことはそのポケモンの中でサッパリ消去されてしまいます。

さて。「"本当に取り返しのつかないことA"により条件付けられた世界に生きている人」が「Aが起きたこと」を忘れるというのは、このように「ポケモンがワザを忘れる」ようにはいきません。

ポケモンのRPGシリーズのゲームにたとえた場合には、「"本当に取り返しのつかないことA"により条件付けられた世界に生きている人」が「Aが起きたこと」を忘れるというのは、むしろ「ゲームの中のポケモン」が「ポケモンのゲームの世界」そのものを忘れるということに近いといえるでしょう。ゲームの世界内の存在である「ポケモン」が、「ゲームの世界そのものを忘れる」ことは可能なのかと考えていくと、そもそもこの場合において「忘れるということ」がどういうことなのかよく分からなくなってきます。


この「よく分からなさ」は、「"本当に取り返しのつかないことA"により条件付けられた世界に生きている人」にとって「Aが起きたことを忘れるということ」がそもそも「ピンとこない」ことにとても似ています。


「本当に取り返しのつかないことが起きてしまった」とき、「忘れるということがピンとこない」という人がいたら、その人が抱いているのはおそらく上記のような「感じ」ではないかと思います。

本当に取り返しのつかないことが起こるということ

繰り返し書いてきましたが、本当に取り返しのつかないことが起きたとき、それ以降、少なくない人々にとって世界の在り方は:

p(この世界におけるx|本当に取り返しのつかないことA )

のような、世界の全てが「本当に取り返しのつかないことA」により条件付けられたような形で映るようになるのではないかと思っています。


東日本大震災から3年たち、色々なものが徐々に「日常」に戻っていき、被災地以外の人々はポケモンが以前のワザを忘れるようにして震災のことも忘れていっているのかもしれません。

ただし少なくない人々にとって「世界の(条件付きの)在り方」は永遠に変わってしまったのだと思います。そして、世界の在り方そのものが変わったことは、原理的に言って「忘れ」たり「乗り越え」たりできるようなものではないように思います*2


だからどうすればいいということを言えるわけでもないのですが


私は「この世界」に残り、その結果として今この文章を書いています。



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*1:説明の中で上記の記事のニュアンスとはもしかして違ってしまうかもしれませんが

*2:逆に、それを「心の傷」とベタに呼んでしまうのも少し違うように思います