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Take a Risk:林岳彦の研究メモ

自らの研究に関連するエトセトラについてのメモ的ブログです。主にリスク学と統計学を扱っています。

岩波DS3の林・黒木原稿の補遺記事(予告)

岩波データサイエンスvol3に統計的因果推論に関する原稿を寄稿しました(林岳彦・黒木学『相関と因果と丸と矢印のはなし:はじめてのバックドア基準』)。

構造的因果グラフという難敵を相手に、「読者にとっての分かりやすさ」と「学問的正確さ」を極限まで両立させることを目指して、もう本当に精根尽き果てるまで頑張って執筆しました。この原稿が現在のわれわれの精一杯です。

(時間の関係で最終版の原稿がチェックできなかったこともあり、大きな誤植がないことを祈るばかりです)

#本原稿の執筆の際にはRcpp関係で有名なteuderさんに貴重なコメントをいただきましたのでこの場を借りて御礼申し上げます。

岩波データサイエンス Vol.3

岩波データサイエンス Vol.3

  • 作者: 岩波データサイエンス刊行委員会
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2016/06/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログを見る

本当は岩波DS3本体の発売と同時に以下の補遺の方も発表できればよかったのですが、色々と立て込んでおり、これから五月雨式に発表していければと思っております。(すみません...)

補遺記事の予定:

(1)表現としての因果モデルについて
(2)Morgan and Winship (2015)の表紙の図の解説
(3)その他いろいろ

参考予定図書:

Causal Models: How People Think about the World and Its Alternatives

Causal Models: How People Think about the World and Its Alternatives

Counterfactuals and Causal Inference: Methods and Principles for Social Research (Analytical Methods for Social Research)

Counterfactuals and Causal Inference: Methods and Principles for Social Research (Analytical Methods for Social Research)

確率概念について説明する(第3-2-2回):「あらゆる奇跡はありふれる」問題

統計 リスク

こんにちは。林岳彦です。いくらあなたが槇原敬之の大ファンで、どんなときもどんなときも僕は僕らしくありたいと思っていても、浮気がばれたときに「もう恋なんてしないなんて〜 いわないよぜったい〜」と歌ったら殴られると思うからそれだけはやめた方がよいと思います。TPOを大切に。


さて。

前回は「到達可能性(のフレーミング)」という観点から、「可能性と確率のあいだ」について考えてみました。

今回は、「あらゆる奇跡はありふれる」という観点から、「可能性と確率のあいだ」について考えてみたいと思います。


(今回もとても長くなってしまいました。いつもながら本当にすみません。。。)

大久保のゴール:「あらゆる奇跡はありふれる」問題

では、今回のテーマである「あらゆる奇跡はありふれる」問題について見ていきましょう。

この問題は、現実の具体的なできごとの「ありえなさ」を真正面から計算していくととんでもなく低い数値になりがち、というものです。

具体的な例で考えてみましょう。

まずは、2014年の3月28日金曜日に等々力陸上競技場で行われた、Jリーグ2014年第5節の川崎フロンターレvs名古屋グランパスの試合におけるフロンターレの大久保嘉人による68分のゴールを採り上げてみます(わたくしフロンターレサポなので)*1

こちらがそのゴールの動画となります:
2014年3月28日 川崎 VS 名古屋 68分大久保嘉人ゴール - YouTube

この最終的な大久保のゴールに至るまでは実に28本のパスが繋がっています。パスが繋がった選手を追っていくと:

田中→小林→森谷→中村→大久保→森谷→中村→田中→森谷→中村→森谷→中村→森谷→ジェシ→井川→谷口→レナト→谷口→大島→ジェシ→田中→ジェシ→大島→小林→中村→森谷→小林→中村→大久保→ゴール

となっています。

さて。では、このような「28本のパスが繋がってゴールに至る」という過程においてありうる可能世界の数を単純に計算してみましょう。

自分のチームのプレーヤーは11人ですから、最初のボールを持っているのは11人のうちの誰かになります。そして、誰かがボールを持っているときにそのパスの潜在的な受け手は10人です。つまり、1つのパスの受け手に関して10通りの可能世界があることになります。上記の最終的な大久保のゴールに至るまでには28本のパスが繋がっています。すなわちそのような10通りの可能世界の分岐(パス)が28回繰り返されていることになり、その可能世界の数は11✕(10の28乗)になります。

11✕10の28乗というと、11✕10000000000000000000000000000です。

上記の動画において私たちが見るものは、11✕10000000000000000000000000000通りの可能世界の中の一つが実現したものといえます。

嗚呼。 。 まさに奇跡的なゴール、というべきなのかもしれません。


さらに試合全体でのパス数について考えてみましょう。この試合全体でのフロンターレの成功したパス数は563回でした*2。この「563本のパスが成功する」という事態においてありうる可能世界の数は、同様に計算をすると「11✕(10の563乗)」になります*3

つまり、この試合で等々力競技場の観衆が見たものは、成功したパスにおける組み合わせだけを考えても
11✕10000000000000000000000000000000000000000000
0000000000000000000000000000000000000000000000
0000000000000000000000000000000000000000000000
0000000000000000000000000000000000000000000000
0000000000000000000000000000000000000000000000
0000000000000000000000000000000000000000000000
0000000000000000000000000000000000000000000000
0000000000000000000000000000000000000000000000
0000000000000000000000000000000000000000000000
0000000000000000000000000000000000000000000000
0000000000000000000000000000000000000000000000
0000000000000000000000000000000000000000000000
0000000000000000000通り
の可能世界の中のうちの一つが実現したものといえるわけです。

全宇宙の素粒子の数が10の80乗ということらしいですので*4、「11✕(10の563乗)」というのはもはや、大沢誉志幸ならずとも途方に暮れてしまうような大きな数と言えるでしょう。

これはやはり奇跡的な試合、というべきなのかもしれません。


しかしながら、より本質的に考えてみましょう。

そもそも、「あらゆる奇跡はありふれる」 のがこの世界の性質なのかもしれません。

『あの日 あの時 あの場所で きみに会えなかったら』:奇跡、奇跡、また奇跡

「あらゆる奇跡はありふれる」のがこの世界の性質とは、どういうことでしょうか。

小田和正の『ラブストーリーは突然に』という1991年のヒット曲をヒントに考えてみたいと思います。この歌は『東京ラブストーリー』という、「また夢になるといけねえ」というサゲのセリフで有名なドラマの主題歌だったので覚えている方も多いのではないでしょうか。

この歌の有名なサビの部分のフレーズは:

あの日あの時あの場所で きみに会えなかったら
僕等は いつまでも 見知らぬ二人のまま

というものです。

自分の恋人と「あの日あの時あの場所で出逢えた」のは奇跡なんだ、と感じさせるステキな歌詞といえます。確かに、恋人との出会いというものは奇跡なのかもしれません。

しかし、太陽のHatsugen Komachi Angelとも言うべき本ブログのソフィストケイテッドな読者さま方におかれましては:

  • 「あの日あの時あの場所」とか言い出したら大体何のときでも当てはまるし
  • あの日あの時あの場所できみに会えなくても、別の日の別の時の別の場所で別の「きみ」に会えたんでしょうねえ
  • 数年後に「見知らぬ二人のままだったほうが良かった」ってなることもあるよね

と心の片隅で思ってしまうのかもしれません。


まあ実際に、多くの「奇跡」というものはそういうものかもしれません。

特定のケースについて事後的に取り上げれば「奇跡的な話」と思えても、全体的に眺めれば単に「ありふれた話」に過ぎないんじゃないの、いうことはよくあります。


以下では、数値的に分かりやすい例として、「誕生日のパラドックス」について見ていきます。

『今日も誰かの誕生日』:ありふれた奇跡に関する計算

キリンジに『今日も誰かの誕生日』という曲があります。これも本当にいい曲です。


ほとんど出オチのような話ですが、「ある任意の日が自分の誕生日である確率」は1/365と高くはありません*5。しかし、もっと全体的に眺めれば「今日も誰かの誕生日」なわけです。上の動画で堀込泰行が唄い上げるように、ハッピーバースデー・トゥー・エブリワン!なわけです。


では。「ある任意の日が自分の誕生日である確率」の話は単純すぎるので、次は「n人がいる部屋に同じ誕生日のペアがいる確率」について考えてみましょう。

これはいわゆる「誕生日のパラドックス」として知られている問題です(誕生日のパラドックス - Wikipedia)。

まずは手始めの前フリとして、少し単純なバージョンとして、「n人がいる部屋に自分と同じ誕生日の人がいる確率」を計算してみたいと思います。

まず、1人目の誕生日が自分と異なる確率は(364/365)です。その確率を1から引くと、1人目と誕生日が同じ確率「1-(364/365)」になります。さらに2人目の誕生日も自分と異なる確率は (364/365)X(364/365)となるなので、2人のうちのいずれかと誕生日が同じ確率は [1- (364/365)^2]になります。これをn人まで拡張していくと、「n人がいる部屋に自分と同じ誕生日の人がいる確率」の答えは:

1- (364/365)^n

になります。グラフに描くと:

f:id:takehiko-i-hayashi:20151023215114p:plain:w350

となります。この「n人がいる部屋に自分と同じ誕生日のペアがいる確率」が0.5を超えるのは、n=253のときになります*6


では今度は、「n人がいる部屋に同じ誕生日のペアがいる確率」について考えていきましょう。

計算のやり方として、1から「n人がいる部屋で全員の誕生日が異なる確率」を引く方法で考えていきます。まず、1人目と2人目の誕生日が異なる確率は(364/365)になります。さらに3人目も異なる確率は(364/365)X(363/365)、4人目も異なる確率は(364/365)X(363/365)X(362/365)になります。これをn人まで拡張すると、その答えは (364!)/[(365^n)\times (365-n)! ]になります(Wikipediaでの説明はこちら)。これを1から引いたもの、すなわち:

1- (364!)/[(365^n)\times (365-n)!]

が「n人がいる部屋に同じ誕生日のペアがいる確率」になります。グラフに描くと:

f:id:takehiko-i-hayashi:20151023215140p:plain:w350

となります。

ここで、「n人がいる部屋に同じ誕生日のペアがいる確率」が0.5を超えるのは、n=23人のときになります。一方、「自分の誕生日と同じ人がいる確率」が0.5を超えるのはn=253人でした。「自分の誕生日と同じ」というのと「誰かの誕生日が同じ」では、起こりやすさがかなり異なることが分かるかと思います。


この「誕生日問題」が示すのは、事後的に特定の組み合わせのみを採り上げると「起こりにくそう」なことでも、そのような組み合わせが起こりうる元となる組み合わせの数の多さを考えれば、単に「ありふれうる」ということです。

このような事例は、実際の統計解析の現場においても「多重比較の罠」などの形で少なからず出会うものです。「多重比較の罠」について興味がある方は、ぜひ以下の過去記事もご参照いただければと思います:

『Happy Birthday, Mr. President』:意志と確率

もちろん、上記のような「組み合わせの数」の問題だけが、「起こりそうもないこと」がよく起こる原因というわけではありません。

たとえば、申し遅れましたが、本日(この記事の公開日)10月25日はわたくしの誕生日です。これはものすごい偶然・・・ということではもちろんありません。これは意図的に本記事の公開日をわたくしの誕生日にしたからです。

このように、人間の意志が絡むと「起こりそうにないこと」は、いともたやすく「起こりうる」ことに変化します。

ここで、誕生日ネタということで、マリリン・モンローがジョン・F・ケネディに捧げた『Happy Birthday, Mr. President』を聴いてみましょう。いろいろな意味でドキがムネムネする映像です:


マリリン・モンローがジョン・F・ケネディにお誕生日の歌を唄うなんて「あまりに奇跡的」なシーンのようにも思います。しかし、それは寧ろ、さまざまな人間の意志が絡んだ「あまりに必然的」なシーンであったのかもしれません。

ハッピーバースデー・ミスタープレジデント - Wikipedia


「人間の意志が絡むと、起こりそうにないこともたやすく起こる」ということを頭の中に留めておくことは、実務的にも重要なことです。

リスク評価の結果としては「リスクは非常に小さい」としていたことがらが、人間の意志/悪意の介在によりたやすく起きてしまうことがあります。

そんなときになって私たちは、必要だったのは実は「リスク評価」ではなく「セキュリティ評価」だった、と気づくことになるわけです。


そして、気づいたときにはもう取り返しがつかないことも多いのです。


野坂昭如が、唄うように。


『じこはおこるさ』:後知恵バイアス

ひとつひとつの事象に着目すれば起こる確率が低いものでも、それが起こりうる機会がものすごくたくさんあるのならば、それは「いつかはどこかでは起こる」のだと言えます。

例えば、この世界で1日に走っている車の数、電車の数を考えれば、「いつか・どこかで」交通事故が起きるのは必然的とも言えるでしょう。



しかし、「いつか・どこかで」事故は起きるというのは予測できても、「いつ・どこで」起きるのかを予測することは非常に難しいものです。そこには本当に非常に大きなギャップがあるのです。

そして実は、このギャップというのは、何かが実際に起きてしまった後では非常に見えにくくなるものです。人間というものは、何かが起きてしまったときは、後から「それは予想可能だった」と思いがちなのです(後知恵バイアス)。この「後知恵バイアス」は、しばしば社会の中でアンフェアな帰結を生むことがあります。


前節で、「人間の意図が絡むと、起こりそうにないこともたやすく起こる」と書きました。しかし、この逆の「起こりそうにないことが起きた時には、人間の意志(悪意、あるいは度し難い過失)が絡んでいる」というのは必ずしも正しくありません

しかしながら、世間ではこの「起こりそうにないことが起きた時には、人間の意志(悪意、あるいは度し難い過失)が絡んでいるに違いない」という決め付けがしばしば起きてしまいます(例えば、福島県立大野病院産科医逮捕事件 - Wikipedia)。


「起こりそうにない事故が起きた時に、そのときの担当者を吊るし上げてサンドバックにする」という"解決"策は、残念ながら、日本においてはしばしば目にするものです。そして、担当者をサンドバックにするときには、上述の「後知恵バイアス」が大活躍します。

「起こりそうにないことが起きた時には、人間の意志(悪意、あるいは度し難い過失)が絡んでいる」という考え方が正しいケースもあるのだとは、思います。しかし、特に病気・感染症・天変地異などの自然現象が絡むケースでは、「なにかが起こりうる潜在的な機会は実はものすごくたくさんある」ことも多く、たまたまそこに居合わせた担当者がベストエフォートをしていたとしても防ぎきれないケースも少なくないのです。

そのような場合には、担当者個人を吊るしあげてサンドバックにすることは、本当の解決にはならないばかりか、より本質的な構造的/組織的レベルでの重大な問題が不問とされることにより、未来の犠牲者を増やすことにも繋がりかねません。

もちろんあらゆる事故が起きないのが一番ではありますが、人間の為すことに「完璧」はなく、自然の為すことはあくまで気まぐれで、私たちが暮らすこの世界ではいつだって可笑しいほどのダイスが転がされつづけているのです。

事故はいつかどこかで起きるものです。もし事故が起きたときには、その「起こりそうになかったのに起きてしまった」ことについて、冷静さとフェアネスを大切にしながら、丹念に腑分けしていく必要があるのだと思います。

「可能性」と「確率」のあいだ:極小の面積をもつ可能世界群をどう足し算するのか

・・・とここまで書いてきて、あまり「可能性と確率のあいだ」の話をしていないことに気づきました。以下では、これまでの話を踏まえつつ「可能性と確率のあいだ」について書いていきたいと思います。


結論から言うと、「可能性」として「起こりそうもないこと」を取り扱うのは、比較的に簡単かもしれません。しかし、それを「確率」として取り扱うのは必ずしも簡単ではありません。

確率というものを「(規格化された)可能世界の面積」と捉える見方を過去記事で説明してきましたが、「非常に起こりそうもないこと=極小の面積を持つ可能世界」がものすごくたくさんある場合に、それらの面積を「どう足し合わせるうるのか」という問題は ーーー 少なくとも実務的には ーーー 非常にやっかいな問題となります。


特に、さまざまに異なる条件が積み重なって起こることがらについては、その非常に小さい"確率"の数値を決めること自体が難しくなります。さらに、どこまでの条件の重ねあわせの組み合わせまで考えるのかも難しい課題となります。

例えば、「これから100年以内にある特定の堤防Aが決壊する確率」というものを真正面から考えてみるとします。ここで、「決壊」という事象に影響を与えうる条件にはさまざまなものがあります。例えば、今後100年間で上流側のダムや堤防の管理がどうなっていくのか、人口や産業構造の変化に伴って流域の河川水の使用量がどうなっていくのか、あるいはその下支えとなる地方自治体の財政状況がどうなるのか、あるいは時空間的な降雨量が地球全体の気候変動に伴ってどう変化していくのか、などなどさまざまな「条件」があり、それらの条件の積み重ねの上での「可能性」を考える必要があります。

「これから100年以内にある特定の堤防Aが決壊する可能世界は少なくとも1つあります」というのは簡単です。しかし、その「これから100年以内にある特定の堤防Aが決壊する可能世界」が、どれだけの条件の組み合わせの数に基づく諸可能世界群のうちのどのくらいの面積を占めるのか(どのようにそれらの可能世界の面積群を足し合わせることができるのか)、そしてそもそもどこまでの条件の重ねあわせの組み合わせまで考えるべきなのか、というのは真正面から考えると途方もなく難しい問いになります。


「さまざまに異なる条件が積み重なることにより起きる」ことがらにおいて「そのような条件の積み重ねの場合の数がものすごく大きい」という場合には、「可能性」と「確率」の間に ーーー 少なくとも実務的には ーーー また一つの大きなギャップ(「可能性」を「確率」という概念の枠組みにはめ込むことが困難な状況)が広がっているわけです。

まとめ:この可能世界に/で祝杯を

はい。今回はかなり雑駁になってしまいましたが、最後に今回の内容をまとめてみます。

  • 事後的に特定の組み合わせのみを採り上げると「起こりにくそう」なことでも、そのような組み合わせが起こりうる元となる組み合わせの数の多さを考えれば、単に「ありふれうる」
  • 人間の意志が絡むと、起こりそうにないこともたやすく起こる
  • その逆の「起こりそうにないことが起きた時には、人間の意志(悪意、あるいは度し難い過失)が絡んでいる」は必ずしも正しくない
  • 後知恵バイアスで人を殴るのは止めよう
  • 「さまざまに異なる条件が積み重なることにより起きる」ことがらにおいて「そのような条件の積み重ねの場合の数がものすごく大きい」という場合には、「可能性」を「確率」という概念の枠組みにはめ込むのは難しい


さて。

今回の記事では、古今東西の名曲をお供に「あらゆる奇跡はありふれる問題」について見てきました。

そんな今回の記事の締めの曲は、ceroの『Orphans』です。


あらゆる奇跡はありふれるのだと知りつつも、この名曲のように、私たちの可能世界において 「この世界」が有る/「この世界」に在る ことの奇跡を、cerebrateしてみるのも悪くはないのかもしれません。



#このシリーズの次回記事では、「そもそも確率は在るのか/唯<この世界>論」問題について書いていきたいと思います。

余談:オススメの参考文献

「偶然」の統計学 (ハヤカワ・ノンフィクション)

「偶然」の統計学 (ハヤカワ・ノンフィクション)

今回の記事で扱った「あらゆる奇跡はありふれる」問題についてもっと詳しく知りたい人は、ぜひこの本を読むと良いと思います。とても面白かったです。オススメっす。

多宇宙と輪廻転生―人間原理のパラドクス

多宇宙と輪廻転生―人間原理のパラドクス

「この宇宙が存在すること自体が確率的に奇跡だよね」という話を深掘りしたい人には、この本がオススメです。分析哲学的にゴリゴリとせまっていく本です。ただし「この宇宙が存在すること自体が確率的に奇跡だよね」という問題意識そのものを共有していない人が読んでも、たぶん全く何が何のことやらピンとこないかと思います。

安全という幻想: エイズ騒動から学ぶ

安全という幻想: エイズ騒動から学ぶ

後知恵バイアスで人を殴ることについて考えさせられます。個人的には、刑事裁判における行為の責任の捉え方において「counterfactualがどう構成されるべきなのか」ということについて考えさせられました*7。「科学と公共政策」「科学と法」「STS」などに関心のある人にはぜひ読んでみてほしい本です*8


.

*1:試合記録はfootball labより

*2:パス数656✕パス成功率0.858

*3:まあ連続して成功しているわけではないので本当はちょっと違う計算式であるべきではありますが

*4:参照: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%8F%E3%83%A0%E6%95%B0

*5:めんどいので、うるう年のこととか、またそれぞれの日に誰かが生まれる確率における偏りとか、そういうのはとりあえず無視させてください

*6:参照:http://kah.s35.xrea.com/gameprob/drop.htm

*7:もし他の人が当時の血液製剤の担当者だった場合に、もっと事態は悪化していたという可能性も十分ありうるのではないか --- 少なくとも私には、実際の一連の担当者たちよりもこの案件についてより適切に対応できる自信はない

*8:あと未だに安部英医師が極悪人の類だと思っている人がいたらぜひ読んでみたほうが良い

8/6因果フェスのプレビュー:「系列Aと系列Bの関係は?」という問いに対する4つの素敵な解法について

こんにちは。林岳彦です。エ・レ・ファ・ン・ト・カ・シ・マ・シ(←滝川クリステル風に声に出して読みたい日本語)。


さて。

今回は8月6日に迫った日本生態学会関東地区会シンポジウム(a.k.a 因果フェス)についてのプレビューを書いてみたいと思います。

今回のシンポにおける問いを一言で言うと:「系列Aと系列Bはいかなる関係か?(*但し共変量および背景に関する情報は無いものとする*)」

統計的因果推論というと「介入効果/措置効果の推定」のことを思い浮かべる方も多いのかもしれませんが、そのテーマは昨年に扱いました

で、今年については本質的には以下の問いが中心になると言えるのかなと思います:

「系列Aと系列Bはいかなる関係かについて答えよ(*但し共変量および背景に関する情報は無いものとする*)」

はい。
これはシンプルではありますが非常に奥の深い問いです。

今回のシンポでは、この問いに対する4つの素敵な解法が紹介されることになります。


それぞれの解法を簡単にプレビューしてみます:


解法1:LinGAMによる解法
午後の部の最初の講演者である大阪大学の清水昌平さんからは、LiNGAM (Linear Non-Gaussian Acyclic Model)という手法を用いて因果が「A→B」なのか「A←B」なのかはたまた「因果関係なし」なのかを識別する方法を中心にお話いただきます。

この手法においては、非ガウス型の誤差分布により生じる非対称性を利用して因果関係が推定されます*1

*LiNGAMについての解説は以下でも見ることができますが、より詳しく知りたい方はぜひ本シンポにご来場いただければと思います。


解法2:Grangerの因果性テストによる解法
午後の部の2番目の講演者であるリクルートコミュニケーションズの尾崎隆さんからは、Grangerの因果性テストという手法を用いて2つの時系列データA, Bの間の"因果関係"を識別する方法についてお話いただきます。この手法においては、時系列間での相互予測力における非対称性を利用して"因果関係"が推定されます*2

(ここで"因果関係”とハイフン付きで書いているのは、ひとくちに”因果”といってもその意味内容には色々バリエーションがあるためです。その辺りの概念的な議論については午前の部において神戸大学の大塚さんに科学哲学の観点からご講義していただく予定です)

*Grangerの因果性テストの解説は以下でも見ることができますが、より詳しく知りたい方はぜひ本シンポにご来場いただければと思います。


解法3:Convergent cross mappingによる解法
午後の部の3番目の講演者である中央水産研究所の中山新一朗さんからは、Convergent cross mapping (CCM) という手法を用いて2つの時系列データA, Bの間の"因果関係"を識別する方法についてお話いただきます。この手法においては、非線形力学系に支配される原因系列と因果系列に含まれる情報量*3の非対称性を利用して"因果関係"が推定されます*4

上述のGrangerの因果性テストがstochasticな系の解析に適しているのに対し*5、CCMは決定論的な系の解析に適したものになっています。CCMは2012年にGeorge SugiharaらがScience誌で発表した比較的新しい手法であり、時系列因果推論におけるhotでsexyな解析手法として急速に広まっているようです*6

*Convergent cross mappingについての日本語の解説はまだ殆どないと思いますので、より詳しく知りたい方はぜひ本シンポにご来場いただければと思います。


解法4:MIC等による解法
最後の講演者であるALBERTの今井徹さんからは、AとBの間の非線形の関係性を捉える方法についてお話をいただきます。基本的には線形の世界において定義されているいわゆる「相関係数」というものを、非線形系も含めた一般的な概念としてどこまで拡張できる/推定できるのかというお話になるかと思います。

*今回のお話のプレビュー的なものを以下で見ることができますが、最新の話を含めてより詳しく知りたい方はぜひ本シンポにご来場いただければと思います。


はい。

というわけで以上4つの解法について簡単にプレビューをしてみました。
Grangerの因果テストとCCMは時系列データの解析手法であり、LiNGAMとMICは時系列に限らない一般のデータを対象とした解析手法となります。

ご興味のある方はこの機会を逃さずに是非ご来場いただければと思います。(非生態学会員の皆様もご遠慮せずにぜひどうぞ!)


では、8月6日の東大駒場キャンパス11号館におけるきっと素晴らしき可能世界にてお会いしましょう。


以下告知文の再掲:

当シンポの概要は以下のとおりです(生態学会関東地区会での正式告知はこちら):


生態学会関東地区会シンポジウム・公開シンポジウム
「非ガウス性/非線形性/非対称性からの因果推論手法:その使いどころ・原理・実装を学ぶ」


日時:2015年8月6日(木)10:20-17:50
会場:東京大学駒場キャンパス11号館 1101教室(11号館の地図駒場へのアクセス
主催:日本生態学会関東地区会 (link
企画者:林岳彦(国立環境研究所環境リスク研究センター)、津田真樹(テクノスデータサイエンス・マーケティング株式会社)
参加費:無料(事前申し込み不要)


プログラム

(1) 10:20-10:30
林 岳彦(国立環境研究所環境リスク研究センター)
「進化生態学者のための前口上:フィッシャー、ライト、因果推論」


(2) 10:30-11:30
大塚 淳(神戸大学大学院人文学研究科)(大塚さんのHP
「哲学から見た「因果」概念のレビュー」


[休憩1時間]


(3) 12:30-14:00
清水 昌平(大阪大学産業科学研究所)(清水さんのHP
「非ガウス性を利用した因果構造探索」


(4) 14:00-14:45
尾崎 隆(株式会社リクルートコミュニケーションズ)(尾崎さんのHP
「Granger因果による時系列データの因果推定」


[小休憩15分]


(5) 15:00-16:30
中山 新一朗(中央水産研究所)
「Convergent cross mapping の紹介と実践:決定論的力学系における因果関係推定」


(6) 16:30-17:15
今井 徹(ALBERT)(今井さんの記事
「非線形の関係を捉える各種指標(MIC等)について」


(7) 17:15-17:50
コメンテーター:黒木学(統計数理研究所)、久保拓弥(北海道大学)、伊庭幸人(統計数理研究所)
コメンテーターからのコメント&全体討論


問い合わせ先
林岳彦(hayashi.takehikoあっとまーくnies.go.jp)

  • 公開シンポジウムのため、どなたでもご聴講できます
  • 事前申し込み不要です(万が一会場が満杯になりましたら大変申し訳ありません)
  • 長丁場のため、個別のご講演のみのご聴講も歓迎いたします

*1:ちなみにRでもLiNGAMを実行できる関数が既に存在します

*2:という理解をしているのですが間違っていたらごめんなさい

*3:という言い方は適切でないかも?

*4:という理解をしているのですが間違っていたらごめんなさい

*5:間違っていたらごめん

*6:ちなみにRでもCCMを実行できるパッケージが既に存在します

確率概念について説明する(第3-2-1回):「可能性」と「確率」のあいだ/ 到達可能性の線引き問題

統計 リスク

やっと会えたね(本能寺で)。林岳彦です。さいきんルンバを買いました。ルンバが動いているのを眺めるときに、「実はどこかで山本昌がこのルンバをラジコンで操作している」のだと想像しながらその動きを眺めるととても贅沢な気分になれます。おすすめのライフハックです。


さて。

確率概念についての記事については前編だけ書いて、1年以上も間が空いてしまいました。もう間男と呼ばれても仕方ありません。たいへん申し訳ありません。


前回(前編)では、「可能世界論からコルモゴロフの定理までを繋げる」話をしました。

今回(後編)では、前回の内容を踏まえて:

「可能である」という概念と「確率」概念のあいだのギャップ

について書いていきたいと思います。

(今回も長い記事になっております。本当にすみません。。)


前編のおさらいと補足:「様相論理と確率測度」の記事の追加

あまりにも間が空いてしまったので、まずは以下の前回記事を軽くおさらいしてみます。

確率概念について説明する(第3-1回):可能な世界の全体を1とする — コルモゴロフによる確率の定理(前編) - Take a Risk:林岳彦の研究メモ

前回のまとめは以下の通りでした:

  • 「可能である」ということは「(近傍の)可能世界全体の部分集合」の形で捉えることができる
  • 様相論理の理路から「確率空間」を捉えることがもし許容されるならば、以下のように「確率」を捉えることができる
  • ざっくり言うと:「Aの確率」とは、(近傍の)可能世界全体における「Aが真である可能世界の部分集合」の「大きさ」である
  • もうちょい細かく言うと:(近傍の)可能世界全体において、関数Pが以下の3つの要件を満たすとき、P(Aが真である近傍の可能世界の集合)は「Aの確率」である
    • 0 ≦ P(近傍の可能世界の部分集合)≦ 1
    • P(近傍の可能世界の全体)= 1
    • Aが真である近傍の可能世界の集合」と「Bが真である近傍の可能世界の集合」に重なりがないとき、P(Aが真である近傍の可能世界の集合 ∨ Bが真である近傍の可能世界の集合)= P(Aが真である近傍の可能世界の集合) + P(Bが真である近傍の可能世界の集合)

上記のまとめを読んでもさーせんしょうじきちんぷんかんぷんです、という方は適宜前回の記事および前々回の記事をお読みいただければと思います。


はい。

では今回の記事では、この「可能世界/様相論理から確率概念を捉える」アプローチに基づき、4つの論点を参照しながら「可能性と確率のあいだ」について見ていきたいと思います。

(厳格にアカデミックな内容というよりも、当面はリスク分析者による楽屋話のようなものになるかと思いますので、気楽に読んでいただければと思います)


*以下マニア向けの補足*
前回の記事を書いた後に、前回の記事と同様に「様相論理の理路から確率空間を捉える」というアプローチをしている記事を見つけたので以下に少し補足しておきます。

一つ目は、Stanford Encyclopedia of Philosophyの”Modal Probability Logics”の項になります。

”Modal probability logic”では、以下のように「様相論理 Modal Logic」と「確率 probability」を関連づけした論理が紹介されています*1

Modal probability logic makes use of many probability spaces, each associated with a possible world or state.

もう一つは、『Artificial intelligence』という本の「確率概念」の導入の項にありました。この本はクリエイティブ・コモンズなので以下から該当部が読めます:

Artificial Intelligence - foundations of computational agents -- 6.1.1 Semantics of Probability

上記では、確率概念と可能世界についてのっけから:

First we define probability as a measure on sets of worlds, then define probabilities on propositions, then on variables

と導入しており、本ブログの前回記事とほぼ同じ考え方になっています。

上記2つのサイトを見る限り、「可能世界/様相論理から確率概念を捉える」のは、ある程度一般性のあるアプローチと言えそうです。


(1)到達可能性の線引き問題:どこまでが「”近傍"の可能世界」なのか?

ではまずは、「到達可能性」の線引き問題を考えてみたいと思います。


前回の記事でのまとめでは「確率」概念について以下のように説明しました:

ざっくり言うと:「Aの確率」とは、この世界の近傍の可能世界全体における「Aが真である可能世界の部分集合」の「大きさ」である

この「説明」はもっともらしくはあるのですが、現実の問題を考える上では困ってしまうところもあります。

それはとりもなおさず:

「(近傍の)可能世界全体」というけれど、「近傍」ってどこまで含めるの?

という問題です。


ここでいちど用語法のおさらいをしておきましょう。「この世界の近傍の可能世界」というのは、「この現実世界@」から大きく隔たらないような(=この現実世界@から到達可能な)諸可能世界のことを意味しています。例えば、「ある朝に目を覚ましたときにあなたが巨大な虫になっている」ことが真である世界というのは、「この現実世界@」とは異なる物理法則や生物的法則が支配している世界であると考えられるため、「この現実世界@」の「近傍(=到達可能な)の可能世界」とは言えないでしょう。

では、どこまでの可能世界を『「この現実世界@」から大きく隔たらないような(=到達可能な)諸可能世界』として含めれば良いのでしょうか?

ここで私たちは、この世界から諸可能世界への「到達可能性」に関する線引き問題に直面します*2


先ずは単純な例として、コイン投げの結果に関する「可能世界」を考えてみましょう。

コイン投げの結果(落下後のコインの向き)は、普通に考えると”オモテ”か”ウラ"かということになります。ただし可能世界としては、「落下後のコイン向きが”ヨコ”(落下後にコインが立つ)」という可能世界も普通に想定することができます。

ここで、私たちは「コイン投げの結果が”ヨコ”である可能世界」を「この世界の近傍の(=到達可能な)」可能世界として含めるべきでしょうか?


現実的問題としては、コイン投げのケースについて確率的に考える場合には、「”ヨコ”なんて考えてらんねーよ」ということになるかと思います。

これは、私たちが私たちの世界における今までの経験に基づき、コイン投げに際しての確率的考察においては『「コイン投げの結果が”ヨコ”の可能世界」を「この世界の近傍の」可能世界として含めない』という判断を暗黙裡に行っていることを意味しています。

ここで注目してほしいのは、この判断自体の是非ではなく、現実世界における対象を扱う上では「この世界の近傍の可能世界の全体(=全事象)」を定めるために我々自身による何らかの判断(=”近傍"のdefine)が必要であるということです*3

そしてこの「近傍の(=到達可能な)可能世界の全体」の範囲が定まらないかぎりは「確率」は定義できません。対照的に、「可能性」という概念は「この世界の”近傍"の可能世界の全体」が定まらなくても成り立ちます。(例:Aが真の可能世界が少なくとも一つ存在する=Aの可能性がある)

ここに「可能性」という概念と「確率」という概念のあいだのギャップの一つがあるわけです。


この「どこまでを”近傍"に含めるのか問題」は、リスク分析の実務においてはしばしば現実的かつ本質的な問題になります。

例えば、「原子力発電所に重大事故を引き起こす外部的要因が生じる確率」を考える際に、「可能な外部的要因の事象」として何をどこまで考慮に含めるかという問題を考えてみましょう。

「大地震」「大津波」「大噴火」「旅客機の墜落」「ミサイル攻撃」「ドローンによる攻撃」「特殊部隊によるテロ攻撃」「隕石の落下」「超能力者の念力による攻撃」「宇宙人によるレーザー攻撃」等々、要因として生じる事象についてさまざまなレベルの「可能世界」を想定することができるかと思います。

これらの例において、「この世界の”近傍”の可能世界としてどこまでを考慮に入れるのか」というのは、絶対的な正解のないいわゆる「線引き問題」になります。


そして、実はリスク分析においてしばしば最も本質的*4な作業のひとつは、この「この世界の”近傍”の可能世界(=全事象)としてどこまでを考慮に入れるのか」というフレーミングの部分になります。

このフレーミングさえ終わってしまえばリスク分析に残るのはあとは単なるテクニカルなパズル解きだけである(≒ 計算機が充分に発達すればデータサイエンティストの手元に残るのはフレーム問題だけである)・・・というのは多少言い過ぎにしても、リスク分析の最終的なメッセージ自体がフレーミングの仕方に大きく左右されうるケースもあり、この部分はとても重要なものになるわけです。

・・・抽象的な話だと分かりにくいかもしれないので、少し例を出して考えていきます。


分析の結論(意思決定結果)がフレーミングの仕方に極端に依存するようなケースとして、地球温暖化対策についての意思決定において「マキシミン則」を適用する場合を考えてみましょう。

まず、マキシミン則について説明しておきます。Weblio辞書から引用(link)します:

マキシミンルール
意思決定理論の用語。不確実な状況のもとで,予想される最悪の事態を避けることを合理的とする行動決定の基準。ロールズが正義の原理を導出する際に用いたことで知られる。

はい。一般的にいうと、マキシミン則とは「最悪のケース(minimum)における効用」を「最大化(maximize)する」という意思決定規則になります。くだけた言い方をすると、最悪の事態をできるだけ「まし」なものにするという基準で意思決定を行うルールのことです。


さて。では可能世界の枠組みを用いて考えていきます。

地球温暖化問題において「最悪のケース(最悪の可能世界)」とは何でしょうか。私が考えを巡らした限りでは、地球温暖化の帰結における「最悪の可能世界」は、「人類が滅亡した世界」になるのかなと思います*5

ここで、マキシミン則を適用してみましょう。「人類が滅亡した世界」のケースは少なくとも人類にとっては効用の下限であると考えられる*6ので、「最悪のケース=人類が滅亡した世界」を防ぐためのいかなる方策もマキシミン則に拠れば「最悪のケースにおける効用を改善(=人類滅亡の回避」)」するという理由により正当化されることになります。つまり、マキシミン則によって考えれば、あらゆる地球温暖化対策はその効果がどんな微弱なものであっても正当化されることになるわけです。

ここでありうるツッコミとして、『そうはいっても「人類が滅亡した可能世界」に到達する”確率"なんて低いんじゃないの?』というものがあるかもしれません。

この辺りがポイントのひとつになります。

マキシミン則を採るかぎり、"確率"の大小は問題になりません。この世界の現在のありようが「人類が滅亡する可能世界の少なくとも一つに到達可能」であるかぎり、マキシミン則を採れば「人類が滅亡する」という極端なケースを判断基準とした意思決定の話に帰着することになります。

一方、もし温暖化による到達可能な最悪の可能世界を「シロクマが絶滅した世界」と規定した場合には、マキシミン則に基づき「温暖化なんて超巨額の資金を使って対策をするほどのものじゃないよね」ということになるかもしれません。


上記の事例が示しているのは、「マキシミン則による意思決定」は「可能世界の到達可能性の線引き(=”近傍”のフレーミング)」の仕方に決定的に依存しがちということです。

一般的に、ある「Xという行為」についての意思決定において「マキシミン則を採用」し、なおかつ「可能世界の到達可能性をかなり広く採る」と、「Xという行為」に関する効用の下限として「人類の滅亡」のような極端なケースが含まれてくるため、「Xという行為」についての絶対的な評価に繋がりがちになります。

例えば、有名な「パスカルの賭け(wikipedia)」というものがありますが、これは「神を信じるという行為」に対して「可能世界の到達可能性をかなり広く採る(=「地獄という可能世界」は到達可能であるとする)」ことにより「神を信じるという行為」の絶対的な評価へ至るロジックの一種として解釈できるかと思います。


(もう少し異なる方向からのツッコミとして、「地球温暖化対策を行なったことによりかえって「人類が滅亡した世界」へ至るような可能世界もあるんじゃないの?*7」とか「「人類が滅亡した世界」を可能世界に含むのは温暖化に限らないですよね?」とかいうものがありうるかとも思います。こういう観点を含めると、マキシミン則では決定不能なので何か他の原理を持ち込んで考えるしかないですよね、となってきます)


はい。上記の例では、リスク分析(に基づく意思決定)の文脈において、その結論がフレーミングの仕方に強く依存する場合があることを見てきました。(もしかして勘違いされている方もおられるかもしれませんが、「リスク分析という営み」そのものと、「どのような意思決定則を用いるか」は基本的には別個の問題ですのでご注意ください。例えば、シミュレーションによるリスク分析の結果を受けてマキシミン則を適用するというのも普通にありえる話です)

上記の例ではマキシミン則(効用の下限に基づく意思決定則)を考えているのでフレーミングに極端に依存しますが、例えば「平均効用」を用いてもフレーム内に極端な可能世界(効用が無限小であるとか)が含まれる場合には同じような状況が生まれます*8。一方、「効用の最頻値」を考えると状況は比較的ロバストになります。ここで、「どのような意思決定則を用いるべきか」は個別の文脈に応じて考えるべきであり、それ自体が大きな論点となるものです。


はい。


というわけで、本稿では「諸可能世界への到達可能性の線引き問題」という観点から『「可能性」と「確率」のあいだ』について見てきました。

このように、「可能性と確率のあいだ」についてどう考えるのかは、リスク分析においては実務的かつ本質的な問題として常に/既に横たわっているものなのです・・・とさらに書き続けていきたいところなのですが、もうずいぶん長くなってしまったのでこの続きは別エントリーとして書いていきたいと思います。


*次回は、『「この世界の確率の低さ」問題:あらゆる奇跡はありふれる』という論点について書いていきます。


*以下マニア向けの余談*
“確率"というものが「客観的」なものか「主観的」なものかという論点はしばしば論争の種になります。私自身は「確率とは間主観的概念である」という立場であり、確率概念についての「客観的確率」という捉え方については特にかなり否定的です。その理由は、私がベイジアンであるからというよりも、私がリスク分析の実務に関わる人間であるから、という側面の方が強いです。端的に言って、公共政策に関わるリスク分析においては「確率」が「客観的確率」である、という認識は殆どの場合において優良誤認に過ぎないように感じています*9。上で書いたように、そもそも公共政策におけるナマの問題群を「確率という概念の型」にどう押し込むかというところからして間主観的なフレーミングに依存する部分が大きいのです。そのため、私はリスク分析者としてのある種の規範的な感覚として、「客観的確率」というものを是認する気にはどうしてもなれないのです。(そして、リスク分析は ---公共政策における専門知による分析一般と同様に--- 「間主観的なもの」であるからこそ、合意、あるいは合意された手続、に基づくことが重要となるわけです)


参考文献

ワードマップ現代形而上学: 分析哲学が問う、人・因果・存在の謎

ワードマップ現代形而上学: 分析哲学が問う、人・因果・存在の謎

可能世界論も含めた形而上学の入門として。わたくし的には2014年に読んだ本の中でいちばん面白かったです。こういう本がたくさん出ると門外漢としてはとても嬉しいです。

可能世界の哲学―「存在」と「自己」を考える (NHKブックス)

可能世界の哲学―「存在」と「自己」を考える (NHKブックス)

可能世界論の入門として。

*1:ただし、上記引用からも分かるとおり、"Modal probability logic"は「一つの可能世界に対して一つの確率空間」を対応させているようなので、本ブログ前回の記事とは階層がひとつズレている話になっているようです。

*2:確率論のコトバで言いかえると、『「全事象」って、どこまで含めるの?』という問いに対応します

*3:その判断が意識的になされたものか否かに関わらず

*4:であるにもかかわらず日常実務的には軽視されがち

*5:異論は認めます

*6:異論は認めます

*7:ジオエンジニアリングとか

*8:「パスカルの賭け」は寧ろこっちに近いと考えるべきなのかもだけど、まあどっちでもいいかとも思います

*9:ただし、筆者の観測範囲にバイアスが存在する可能性あり

【因果フェス2015】8月6日@駒場:生態学会関東地区会シンポを企画させていただきました

告知

こんにちは。林岳彦です。I’m not ABブラザーズ。


さて。

今年の8月6日(木)に日本生態学会関東地区会のシンポジウムを企画させていただくことになりました。ご講演者、コメンテーター、関東地区会幹事等々のご関係者のみなさま方に深くお礼を申し上げます。(その中でも、東京大学の嶋田正和先生には当シンポの企画に際して大変に親身なご助力をいただきました。改めて感謝申し上げます。)

当シンポの概要は以下のとおりです(生態学会関東地区会での正式告知はこちら):

生態学会関東地区会シンポジウム・公開シンポジウム
「非ガウス性/非線形性/非対称性からの因果推論手法:その使いどころ・原理・実装を学ぶ」


日時:2015年8月6日(木)10:20-17:50
会場:東京大学駒場キャンパス11号館 1101教室(11号館の地図駒場へのアクセス
主催:日本生態学会関東地区会 (link
企画者:林岳彦(国立環境研究所環境リスク研究センター)、津田真樹(テクノスデータサイエンス・マーケティング株式会社)
参加費:無料(事前申し込み不要)


プログラム

(1) 10:20-10:30
林 岳彦(国立環境研究所環境リスク研究センター)
「進化生態学者のための前口上:フィッシャー、ライト、因果推論」


(2) 10:30-11:30
大塚 淳(神戸大学大学院人文学研究科)(大塚さんのHP
「哲学から見た「因果」概念のレビュー」


[休憩1時間]


(3) 12:30-14:00
清水 昌平(大阪大学産業科学研究所)(清水さんのHP
「非ガウス性を利用した因果構造探索」


(4) 14:00-14:45
尾崎 隆(株式会社リクルートコミュニケーションズ)(尾崎さんのHP
「Granger因果による時系列データの因果推定」


[小休憩15分]


(5) 15:00-16:30
中山 新一朗(中央水産研究所)
「Convergent cross mapping の紹介と実践:決定論的力学系における因果関係推定」


(6) 16:30-17:15
今井 徹(ALBERT)(今井さんの記事
「非線形の関係を捉える各種指標(MIC等)について」


(7) 17:15-17:50
コメンテーター:黒木学(統計数理研究所)、久保拓弥(北海道大学)、伊庭幸人(統計数理研究所)
コメンテーターからのコメント&全体討論


問い合わせ先

林岳彦(hayashi.takehikoあっとまーくnies.go.jp)

  • 公開シンポジウムのため、どなたでもご聴講できます
  • 事前申し込み不要です(万が一会場が満杯になりましたら大変申し訳ありません)
  • 長丁場のため、個別のご講演のみのご聴講も歓迎いたします
  • オラわくわくしてきたぞ


何卒よろしくお願いいたします!

僕は論文が書けない:苦境脱出へ向けての2+1冊

研究hacks

こんにちは。林岳彦です。最近は佐野元春ばかり聴いています*1。将来的にはあんな髪型になりたい。


さて。

「研究者なれども研究しない!」という斬新な決めフレーズでおなじみの雑用戦隊ヒーローシリーズがありますが、かくいう私も何やかんやの雑用に埋もれてここのところ論文を書くペースがすっかり落ち込んでおり*2、そんなこんなのアオリで本ブログも休止しているありさまになっています。

そんな折、私の心の師ともいうべき東北大学の酒井聡樹先生から近刊である『これから論文を書く若者のために 究極の大改訂版』をご恵贈いただいたので今回の記事を書くことにしました。

これから論文を書く若者のために 究極の大改訂版

これから論文を書く若者のために 究極の大改訂版

今回は、久しぶりの【研究hacks】タグの記事になります。今回は院生〜若手〜中堅研究者くらいの方々を想定読者として書いていきます。

(書いてるうちにまたかなり長くなってしまいました。すみません。。。)


論文が書けない それは苦しい

はい。ではまず手始めに事実を確認しておきましょう。論文が書けない。それは苦しいことです。

「飛べない豚はただの豚」という有名なフレーズがありますが、「書けない研究者はただの金髪豚野郎ヒト」であるように思います。

どんなに些細な研究であったとしても、その内容を論文として遺すことにより私たちの研究ははじめてパブリックなものになり、その一つ一つはささやかなものであるかもしれない論文たちが集積しアカデミズムという大河へと連なり人類の学究は悠久の時を超えて続いていくのです。

個々の研究者というものはアカデミズムという大河に浮かぶ一隻の小舟のようなものです。そして言わば「論文が書けない研究者」はこの大河から外れて座礁してしまった存在なのです。もし我々が「論文が書けない」状況に陥ってしまったならば、そしてもし依然「研究者」でありつづけたいのならば、急いでまたその大河へと戻らねばなりません。


どうやって戻るのかって?

論文を書くのです。他に道はありません。

1冊めの紹介:『これから論文を書く若者のために 究極の大改訂版』

はい。では論文を書くための(再)準備を進めていきましょう。

まずは酒井先生からご恵贈いただいた『これから論文を書く若者のために 究極の大改訂版』を採り上げていきます。

(いちおう情報開示のため酒井先生と私の関係性を説明しておきますと、私と酒井先生は15年ほど昔に「大学院生(私)と、私の指導教官(某河田雅圭先生)と仲の良い助教授(酒井先生)」という関係でした。比喩的に言えば、私にとって河田先生が「ダメな親*3」ならば酒井先生は「気さくな叔父さん」というイメージです。私にとってとてもありがたい存在でした)

これから論文を書く若者のために 究極の大改訂版

これから論文を書く若者のために 究極の大改訂版

*酒井先生自身による本書の紹介ページはこちら


さて。「人生で必要な知恵はすべて大学院の修羅場で失った幼稚園の砂場で学んだ」という有名なフレーズがありますが、私にとって本書は「論文書きに必要な知恵はすべてこの本で学んだ」と言っても過言ではない本です。マジ感謝しております。

もしかすると訝しんでおられる方も居るかもしれませんが、決して単に今回ご恵贈いただいたという理由により本書の宣伝をしているわけではありません。私の本書にかける想いはそんなインスタントなものではありません。以下のリンク先に確固たる証拠があります:

Amazon.co.jp: カスタマーレビュー: これから論文を書く若者のために


実は、上記のリンク先にある本書の初版についての『類をみない良書』という題のアマゾンレビューは、私が11年前にテネシー大学でのポスドク時代に書いたものなのです*4。いま改めてこのレビューを読み返すと、私の本書へのほとばしる愛と、元指導教官(某河田先生)へのにじみ出る恨み節が感じられて、我ながらほっこりといたします。


上記の11年前のアマゾンレビューでも書いていますが、「論文を書くスキル」というものは論文を書くことでしか養われない部分があります。多くの場合、筆頭著者で4本、5本、6本と論文を書いていくとだんだん「ああ俺もかなり論文を書くスキルがついたなあ」と思えてくるのではないでしょうか。問題は、では「はじめて論文を書く若者」はどうすれば良いのか、ということになります。

本書はそんな「はじめて論文を書く若者」のために最初の手ほどきをしてくれる稀有な本なのです。


はじめて論文を書く若者は色々なことが分かりません。

イントロダクションをどう書けば良いのかが分からない、メソッドには何をどこまで書けば良いのかが分からない、リザルトには何を書き何を書くべきでないのかが分からない、ディスカッションには何をどう書いていいのかわからない、投稿時のレターには何を書けば良いのかわからない、査読コメントのリプライはどのように書けば良いのか分からない、リジェクトのレターが届いたときにどんな顔をすれば良いのか分からない、など分からないことだらけです。


本書はそんな「(科学)論文の執筆から受理に至るまでの過程において何を書くべきであり何を書くべきではないのか」について丁寧に語ってくれる大変ありがたい本なのです。

「論文の書き方が分からない」という若者の方々、あるいはそのような若者を指導する立場になった研究者の方々には、まず読むべき本として心からオススメしたいと思います。


論文書きという苦境の中に、仄かに希望の光が見えてくる、かもしれません。


2冊めの紹介:『できる研究者の論文生産術 どうすれば「たくさん」書けるのか』

さて。

基本的にポイズンなこの世の中では、残念ながら、論文の書き方は分かっていても論文が書けない状況に陥ることもあります。

「研究者がバスルームで論文を書くのを邪魔をする100の方法」というロリポップ・ソニック改名バンドの有名な曲がありますが、研究者も中堅にさしかかってくると、さまざまな書類書きや会議や教育や学会業務や愛しさや切なさや心強さなどによって、そもそも「研究をする時間/論文を書く時間がない!」という新たな壁にぶち当たるようになります。

その壁をどう乗り越えるのか。その戦略を考える際に参考になるのが、以下の『できる研究者の論文生産術 どうすれば「たくさん」書けるのか』です。

できる研究者の論文生産術 どうすれば「たくさん」書けるのか (KS科学一般書)

できる研究者の論文生産術 どうすれば「たくさん」書けるのか (KS科学一般書)

*出版社による本書の紹介ページはこちら


この本の内容は、本書のはじめに収録されている三中信宏さんによる「推薦のことば:日本語版刊行にあたって」の中で以下のように巧みに要約されてます*5

 本書が掲げるのはたくさん書くための抽象的な精神論ではない。むしろ、この上もなく具体的な行動規範を著者は強調する。とくに重要な点は、文章を書くための時間は”見つける”ものではなく、スケジュール的に”割り振る”という発想の転換である。書く時間をあらかじめ設定し、万難を排してそのスケジュールを死守する書き手を著者は「スケジュール派(schedule-follower)」と呼ぶ。たくさん書くためにはスケジュール派であれ。たしかにこのスローガンを守ることができる研究者はきっとシアワセになれる。ウソではない。

 日頃よく耳にする「もっと時間があったら…」とか「機が熟してから…」とか「もっと調べてから…」という弁解は、単に自分が書かないことに対する見苦しい言い訳にすぎない。ヒソカに罪の意識に苛まれつつ、それでも書くことを先延ばしにしたあげく、締切間際まで追い込まれてからドロナワ夜なべ仕事で書きまくるスタイルを著者は嘲笑して「一気書き(big writing)」と呼ぶ。研究者が「一気書き」に逃避するこのような言い訳を、著者がひとつひとつ論破していくようすはまさに大魔神のごとし。

はい。このような本です。

本書は、日々の多忙さの只中で「書くためのスケジュールをどう確保する(べき)か」という問題について、心理学者である著者が専門的な知見を交えつつ解決策を説いていく本です。その筆致は説得的かつスムーズであり、文章を楽しみながら「書くための時間をあらかじめ確保すること」の大切さとそのための具体的な方法を学べるようになっています。


もしかすると、本書の副題の『どうすれば「たくさん」書けるのか』という部分に対して、「研究者の目指すべきは論文のじゃねーだろーが」と反発を覚える方もいるかもしれません。しかし、実際に読んでみると『「たくさん」書ける』というのは釣りタイトルに近いことが分かります。著者自身が本書のおわりで述べている箇所を引用します*6

本書で説明しているのは、たしかに「どうやって文章をたくさん書くか」かもしれない。でも、たくさん書かねばならないというふうに思い込まないこと。正確を期すということでは、本書のタイトルは『どうやって通常の勤務日に、不安や罪悪感に苛まれずに、より生産的に書くか』にした方がよかったのかもしれない。でも、それでは誰も買ってくれないだろう。

確かに、本書の内容をより正確に表すと『通常の勤務日に、不安や罪悪感に苛まれずに、より生産的に書く方法』になるかと思います。なので、「たくさん書く」の部分に反発を感じた方もご安心ください。


というわけで、寄せては返す雑用の波に揉まれながらも『通常の勤務日に、不安や罪悪感に苛まれずに、より生産的に書きたい』という儚い望みを持ちつづけて日々耐え忍んでいる愛すべき研究者の方々に、本書をオススメしたいと思います。

ちなみに三中信宏さんはこの本に書いてあることを実践したら、なんと1年近く放っておいた翻訳のお仕事がみるみるうちに『たった三週間でまる一冊が翻訳できてしまった』そうですよ。むかしジャンプに載ってたブルワーカーの広告みたいに凄い効果ですね!

+1冊の紹介:『かくかくしかじか』

さてさて。

もちろん、基本的にポイズンなこの世の中では、上記の『できる研究者の論文生産術』を読んだからといって、そもそもの雑用の総量が減るわけではありません。たとえどんなに雑用を減らそうと努力したとしても、エントロピーと雑用が増大しつづけるというのは、宇宙の法則なのです。島本和彦作品の登場人物でもないかぎり、一介の個人が宇宙の法則に勝てるはずがありません。

「研究者が論文を書き始めれば7人の敵がいる、もしくは、11人いる!」という有名なフレーズがありますが、職場の状況によっては、もろもろの雑用による組織への貢献で認められていれば、いつの間にか周りから「論文を書け」と強くは言われなくなってくるかもしれません。研究者も中堅にさしかかると、毎日毎日、何だかんだで雑用を強気で注文してくる人々の数はとても多くなるものですが、それに比べると「論文を書け」と強気で注文をしてくる人の数はとても少なくなっていくものです。

そんな状況の中で、雑用の波に流されずに「論文を書く」ことに情熱と時間を割きつづけることは簡単ではないのかもしれません。

しかし。想像してみてください。

もし、今あなたが後ろに振り向いたらそこに佐野元春が居て、その佐野元春に「きみは雑用がしたくて研究者になったのかい?」と正面から尋ねられたら、あなたは何と答えますか?

「研究です!私は研究がやりたいんです!」と涙ながらに答えるのではないでしょうか。少なくとも私はそう答えるでしょう。研究がやりたいのです。佐野元春相手に嘘はつけません。

しかし、現実とは基本的にポイズンなものです。
現実には、あなたの後ろの正面に佐野元春はいないのです。
現実には研究者も中堅に差し掛かってくると、佐野元春どころか、「論文を書け」と背中を押してくれる人間自体がもう周りからいなくなってくるのです。

寂しいことです。

そんな状況の中堅研究者にオススメしたい作品が、東村アキコさんの『かくかくしかじか』という作品です:

かくかくしかじか 5 (愛蔵版コミックス)

かくかくしかじか 5 (愛蔵版コミックス)

*出版社による本作品の紹介ページはこちら
*本作品についての東村アキコさんのインタビューはこちら


この本は「マンガ大賞2015」も受賞しているたいへん有名なマンガなので、既にご存知の方も多いかと思います。この漫画は、作者である東村アキコさんと、彼女の高校からの絵の師匠である日高先生との関係を描いた自伝的作品です。


もしあなたが中堅研究者であるならば、ぜひこのマンガを読んでみてください。

この『かくかくしかじか』を読み通すと、おそらく、あなたがまだ「これから論文を書く若者」だった頃から研究者として独り立ちするまでに、論文を『書け』とあなたの背中を押してくれた指導教官、大学院の先輩、あるいは色々と世話をしてくれた年長の研究者などなどの顔が思い浮かんでくるのではないかと思います。

そして、もしかしたら、本作品内でのアキコのように、今までそんな方々に不義理を重ねてきたことを思いだして心がしくしくと痛むのかもしれません。


そうならば、今からせめてもの「恩返し」をしましょう。

どう恩返しするのかって?


論文を書くのです。私たちは研究者なのですから。


おわりに:「いつ書くの?」

はい。

今回は以下の3冊(というか2冊と1シリーズですが)の本を紹介いたしました。

これから論文を書く若者のために 究極の大改訂版

これから論文を書く若者のために 究極の大改訂版

できる研究者の論文生産術 どうすれば「たくさん」書けるのか (KS科学一般書)

できる研究者の論文生産術 どうすれば「たくさん」書けるのか (KS科学一般書)

かくかくしかじか 5 (愛蔵版コミックス)

かくかくしかじか 5 (愛蔵版コミックス)

もし上記の3冊(というか2冊と1シリーズ)を読み終えれば、論文を書くための技術も、論文を書くための時間を確保するための段取り法も、論文を書くためのモチベーションも、全てが準備万端となるはずです。


あとは書き始めるだけです。

想像してみてください。


もし佐野元春に「きみはいつ論文を書き始めるんだい?」と尋ねられたら、あなたはどう答えますか?




もちろん答えは・・








SOMEDAY

SOMEDAY









.*7

*1:さいきん『Visitors』のころのライブ映像を見ました。『Visitors』ってヒップホップの印象が強かったですが、ライブ映像を見るとむしろプリンスの影響を強くかんじるなあと思いました。今さらながら意外な発見

*2:もともとペース低いのに、さらに

*3:当時の河田先生はかなりの放置系の先生で院生としては非常に苦しみました。今は元学生として普通に仲良くさせていただいていますが、今でも河田先生に「林君は昔は暗かったけど今は明るくなったね」とか言われると、「院生時代はお前のせいで暗かったんじゃ〜!!」とふつふつと当時の恨みがよみがえります。あと関係ないけどおぎやはぎの矢作さんは河田先生にちょっと似てると思う

*4:昔はアマゾンレビューをけっこう書いたりしてました。今考えるとそんな暇あったら論文書け!っていう話ですね。ちなみに昔書いたレビューの一部は例えば→ http://u666u.info/leYC

*5:同書内頁viiより引用

*6:同書内頁155より引用

*7:すんません。嘘です。。。今日から書き始めましょう!

業務連絡:当面のあいだ更新止まります

こんにちは。林岳彦です。プロレタリア白菜。

すっかりdutyの多重債務状態になりにっちもさっちもアームストロングなので、本ブログおよびtwitterとブクマも当面のあいだ(少なくとも半年以上は)更新止まります。


敬愛する某コロンさんよりは早く帰ってきたいです。